《第一話  暗  闘・2》


 いや、もし見えていたらそう映っただろう。裏返って現れたのは真っ赤な瞳だった。常人の半分ほどの瞳。燃えるような鋭い瞳がオマジナイの効果を発揮する時が来た。風は影の気の流れの変化をとらえていた。
 「さあ、血の涙を流すがいい!」
 この世のものとは思えぬ暗く冷たい響きが風の耳に届いた。響きが消え去らないうちに、岩の上から影の気配が消えていた。男は影が動いたと感じた。距離を置いて影の正面に立っていた風は素早く左に動く。風は手紙の癖で影が左利きであると判断していた。湖に入った音はしなかった。正面ならとらえていた気配を失うはずがない。この0 .1秒の間に左右どちらかに動いた。
 出遅れた分、一度距離を離して一発目の攻撃を交わさなければならない。瞬時の判断として左なら避けられる。利き腕からは少しでも遠いほうがよい。この戦いに飛び道具を使ってくることはない。それでは呼び出した意味もなく、お互いの闇の力をぶつけ合うことにはならない。
 常人なら日中でも歩くのに苦労するはずの岩場を音を発てず、風は左に走っていた。男が風と呼ばれる由縁である。音もなく速い。エネルギーを使いながら身体の気を消すことは難しい。その間に失った相手の気も探り、所在を確認しなければならない。風は二つを一度に行っていた。十秒間動いた。距離は取ったはずだ。
 敵は先制攻撃出来なかったようだ。周囲に予め仕掛けた罠はないだろう。闇の戦いにも暗黙のルールはある。あと考えられるのは呪詛の類だった。
 影は呪詛の使い手のように思った。しかし、呪詛ならすぐには攻撃できない。根本的に呪詛も精神エネルギーの変動量である以上、念を集中する時間を必要とする。一度呪詛を掛けられると解くためには強固な意志を必要とする。精神力には自信があった。風はこれまでにも呪詛使いを打ち破ってきている。
 風は太い樹の蔭に潜んだ。動かず更に数十秒待った。
 影が始めに移動してからは動いていないはずだ。何処かに潜み機を伺っていると考えた。女が完全に気配を消していることに、風は感心させられる。侮れない相手だった。
 《だが、これからどうする?》
 自分への問いかけは相手への問いかけでもある。お互いにいつまでもこの深い闇の中で隠んぼをしているわけにもいかない。決着は着けなければならないのだ。
 殺気がないので敵の攻撃方法を読むことは難しい。相手の力量には計り知れないものがある。怖くないといったら嘘になる。・・が、この戦いには朝を迎えて握手で相手を称え合うなんていう結末はない。殺る・・。そして屍すらも消し去る。存在を残さぬのが礼儀である。
 お互いに動かず時を刻む。いつしか蟋蟀の鳴き声が大きくなっていた。敵も自分の居場所を失っている、そして動けずにいる。虫の音はその証のようなものだ。風は仕掛けることに決めた。次に吹いた風に乗ることにした。風に乗ったとき能力は倍増する。乗って湖面近くまで戻ろう。吹くまで待つ。
 足下にカサカサと蟋蟀が蠢いている。終わったら十匹ぐらい食ってやろうと思っている。風は人間よりも虫を喰うほうが好きである。さっき喰った蟷螂の味を思い出していた。気力を高めるために瞼を閉じた。閉じた瞼に赤い光が射した。
 「・・・・・・・・・?」
 風はゆっくりと目を開けた。気配ではない。ポタリと何かが垂れて、足下の蟋蟀達が逃げた。何かがたらりと頬を伝う。悪寒が走り抜け背筋が凍り付いた。
 《飛び道具?。やられたのか》
 風は額を切られたのかと思った。血の匂いはしない。風はそれが涙であることに気付いた。
 《涙?。何故・・》
 とにかく拭ってみた。たまらなく目が痛い。
 《何だ。ガスか?・・。いや、呪詛!。・・『かしり』の類か》
 『説乞い』は相手に禍を及ぼすために不吉な言葉を発する術で『かしり』はその上のランクの呪詛にあたる。
 瞳を針で刺されたような激痛が走り始めた。
 《まずい。動くか?》
 激烈な痛みに耐えながら風は考える。姿勢は崩さなかった。動けばやられる。そう言い聞かせる自分もいる。相手は出てくるのを待っているのだ。意識が遠くなる。風は歯を食いしばり気を殺して考えていた。ガスなら死んでいても不思議ではない。ガスなら銃と一緒だ。殺すためだけが目的か・・。そうは思えない。呪詛だ。間違いない。目だけか・・。闇の戦いだ、目を失っただけならまだ勝機はある。風は自分に言い聞かせた。焦りは禁物だった。しかし、疑問はあった。
 《それなら何故目を・・?》
 自分が気付かぬうちに呪詛を掛けるほどの者ならもっと致命的なものでもいい。いや、そこまでの力は無いのか・・。冷や汗が流れ始めていた。敵が襲いかかってくる気配はない。掛けた者ならもう呪詛が効いていると解るだろう。
 《やはり、これは『かしり』だ》
 目を激痛が襲う。敵は完全に果てるのを待っているのか。
 考えた。そして、風は樹の蔭から跳んだ。走った。見えぬ目で跳躍を繰り返し、先程の岩に向かった。疾走しながら考えた。始めに攻撃を仕掛けられたと思ったのはフェイントだったのだ。敵は動いていない。岩から下に降りただけだ。そこで気配を消していた。どうして気が付かなかったのか!。あざ笑いながら呪詛が効くのを待っていたのだ。
 《呪詛はいつ掛けた?》
 手紙ではない。今日までに時間があった。物に込めてくる呪いならば必ず気付いている。通常の人間ならともかく自分がそれに気付かないとは信じられない。考えられるのは会話の時だ。
 直接の呪文なら距離が近ければ呪詛はそれだけ速く効く。
 《「血の涙を流すがいい!」。あれか・・?。》
 いや、違う。敵は自然な会話の中に呪詛を含めた。自分が気付かなかった言葉だ。
 風はもう岩のすぐ傍に来ていた。どんな会話をした?。薄れていく匂いを頼りに、男は痛みに薄れそうになる記憶を必死で辿った。呪詛を解く鍵を捜していた。引っかかったのはあそこだ。
 《あなたの瞳もわたしのように赤い炎で燃えさせてみたいわ。いいかしら?》
 《君がどうやって燃えさせてくれるのか是非、確かめてみたいものだね》
 そして、スロウイング・キッス!。
 あれが呪詛だったのだ。『かしり』の呪文を自ら受け入れてしまったのだ。返すことはできないだろう。効果は抜群である。なんと無防備な愚かさ!。
 甘い。甘すぎる。殺伐とした戦いに、そして、これまでの勝利に慣れすぎていた。
 全ては相手のペースで進んでいた。今更勝算がないことは解った。死ぬ。果てるのだ。しかし、一矢報いたい。もう目から零れ落ちているのは涙ではなくなっている。目が焼けて、角膜と水晶体の間を満たす眼房水や、眼球の大半を占める硝子体内の液がドロドロと垂れ流れていた。恐るべき能力。今は見事と云う他はない。
 《どこだ!》
 視神経は脳にまで収束され繋がっている。外的要因ではなく呪詛で加熱されてるならば、いずれ脳にまで届くだろう。
 時間がない。テグスをかけてやる。かけて吊るしてみせる。喰ってやる。死ぬ前におまえを望み通り喰ってやる!。風が指の付け根に巻いているテグスは絹糸ではない。特殊に精製した化学繊維の頑強な糸だ。ピアノ線よりも細く軽く透き通っている。風はその糸を風に乗せて放つ。そして自由自在に操り、数多くの敵を仕留めてきた。
 岩の上に登り着いた時には完全に失明していた。僅かな光覚も失われていた。それでもここまで数分もかからず辿り着いているはずである。
 風はテグスを宙に放った。音はない。手応えはなかった。数度方向を変えて放った。糸は静かに舞った。数秒後、指の先に微かな糸の振動をとらえた。触れた本人も気付かぬ程の接触である。
 《いた・・》
 風は左腕に付いた隠しポケットから、針抜刀を抜いて右手に握りしめた。直径一センチ足らず。柄の長さを含めて十センチ程の長さ。一見目打ちの様だが、先端が錐のように鋭利に尖った武器である。風は左手を宙で回してから引いた。
 ヒュンッ!・・・と唸る。
 何故か自分の指がポロポロと何本か落ちた。放ったテグスがいつの間にか敵に引き返されていた。敵の引きの方が瞬間早かったのだ。根元から指が無くなっていた。今の風に痛みは感じない。間髪を置かずに風は影に向かって針抜刀を打ち込む。空を切った。思うよりも敵は敏速に動いている。糸が唸り、首に掛かるのを感じて、風は瞬時に両足を蹴った。相手の返し業に驚嘆している隙はない。後方に蜻蛉を切ると空中でテグスを抜き、相手の首に掛け戻す。そのまま影の後ろを盗ると着地と同時に引いた。
シュウウ・・・。
 ぶちん。
 音の後に風は返り血を浴びた。
 《奪(と)った!》
 風は一瞬歓喜した。が、影は胸元を飾っていたペンダントを顔の前に突き出し、テグスが喉に侵入するのを防いでいた。見事な防衛本能である。鎖は鈍い音を発てて切れ、緩衝剤としての役割を果たし終えた。女の手の甲の血管が何本か切れ血が噴いていた。
 風は急いで振り返る。そこには、絶望的な戦慄だけがあった。人差し指と中指、中指と薬指の二間に光る白銀の鋭器が・・真っ直ぐに向かってくるのが・・。見えているように感じた。
 グツン!。
 風の喉仏に衝撃が走った。
 ぐるるるるる・・・・。
 血飛沫が散った。
 風は思っている。見事な動きだ。奴には全部見えている。暗闇の中、全てが見えていた。
 そういう目を持っているんだろう。どんな目だろう。見えない目で風は影の赤い瞳を見ようとする。
 《一目、君の美しい顔を間近で見たかった・・》
 言葉にはならなかった。男は震える右手で女の顔に触れた。細っそりとした顎のライン。熱く張りのある肌。これ程までに若い、とは・・。影は最後の驚きを感じていた。《断末の醜い顔を笑わないでくれ、南国の美女よ。》
 「有り難う。素敵だったわ」
 女は男の頬を撫でていた。風の顔は笑みを作ろうと歪んでいた。吊り上がった三白眼の目、今は瞳も無くなっている。影の体は痙攣し始めている。
 優しいオンナよ・・。さらばだ。敗北は決まっていたのだ。君の演出は見事だった。会話に含ませた呪詛。動いたと錯誤させ、岩の一部と成りきっていた術。テグスの返し技。
 風は影に抱かれて横たわったまま、一本だけ残った左手の小指を何とか自分の唇に当てる。薄れていく意識の中で女の情熱的な口付けを感じた。柔らかい唇の温もりが冷めていく口元に心地よい。
 呪詛のかかった投げキッスよりはずっといいもんだ。いいな氈E・・。いぃ・・。
 風の首はゆっくりと落ちた。
 小型のよく尖ったピンセットを風の喉から引き抜き、影はその先を舐めた。岩の上に佇んだまま、ゆっくりと自分の胸の谷間にしまい、ふうっと息を吹いた。
 一メートル、そんなもんだろうか。影がこの戦いに移動した距離である。血のこぼれ落ちる手に鎖を巻きながら口元に笑みを浮かべた。
 「少し・・、満足したわ」
 影の瞼の下には黒く美しい瞳が輝いていた。

第一話 終 了




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