《螺旋の城》 


 1. 海

 バスを降りた。
 此処で下車したのは私一人だった。
 それもその筈だ。大型の路線バスに乗っていた客は私だけだったのだ。しかし、どれ程の時間一人だったのかは覚えていない。最後尾のシート、陽の射し込む窓に額をつけ、揺りかごの様に揺れる車内で深遠なる眠りに就いていたのだから。
 降り立ったまま停留所から動くことが出来ない。眩しさに幻惑している今、思考する以外に道はなさそうだ。
 どうして私は終点でもないバス停に降り立ったのか。運転手は停留所名を告げなかった。当然、彼に此処で起こしてくれと頼んだ記憶もない。自然と目を覚まし、此処で降りた。だが、この街の匂いには確かな懐かしさがある。柔らかな光りの匂い・・。
 暫くの困惑の後、真っ白く陽射しのベールに覆われていた景色がゆっくりと鮮明になっていった。
 コバルトグリーンの海。
 パールホワイトの街並。
 頭部だけが自然に頷いた。そうだった、此処に戻ろうとバスに乗ったのだ。この街には随分と久し振りに訪れた。気侭な一人旅に憧れてバスに跳び乗るなんて柄ではない。何十時間という時間を費やして私は此処に戻って来たのだ。
 だが、記憶は曖昧だ。私はいつ此処に来て、いつまで此処にいたのだろう。そして、何のためにまたやって来たのだろうか。意識はまだ眠りから覚めきってはいないようだ。
 目に映る映像は此処に居たはずのあの頃と少しも変わりはないように感じる。あの頃・・、だから、それはいつ。いや駄目だ。途切れ途切れ、思考が連結してゆかない。

 春先の陽炎の中にゆっくりと足を踏み出してみた。
 真っ直ぐ前に港が見える、いや、港のようだがあれは湾だ。自然に出来た湾の手前に長い防波堤が築かれているので、遠目には船が停泊する港に見える。だが、湾岸には船は一艘もない。以前にも船はなかっただろうか。かもめの群れも隠れてしまっているのか。
 やけに白っぽいアスファルトの上を数分足らず進むと、肩の高さ程もある防波堤に行き着いた。白亜の堤には数十メートルぐらいの間隔で石段が設けられていた。目の前にある幅の狭い階段に足を掛ける。登ると景色が鮮明になってくる。堤の上は舗装された歩道になっていて、路上を潮風が渡っていた。涼しい風だ。眠っている間にまとわりついた熱気を払おうと海からの風を受けるように立ち、堤の両端へと視線を流してみた。
 波打ち際に平行して、堤は南北に何処までも伸びている。右側の果ては、緑に覆われた小高い山のような半島が大きく迫り出している。そうずっと右に歩いて行くと、行き止まりには背の低い灯台があった筈だ。何という名前だっただろう。此処からは見えないが灯台まで一時間近くはかかったに違いない。住んでいる間に二回ぐらいは行っただろうか。いや、住んでいたのか・・。
 左手を眺めると、浜が大きく三日月状に反っている。先端に障害物は無く、彼方の海岸線が朦朧けて見える。この先には何があっただろうか。よく思い出せない。
 正面に向き直り目線を再び彼方へ投げる。水平線がブルー・スカイの空と、コバルト・グリーンの海とを僅かに区別するように一本の細い線となって、漸く境界の役割を果たしている。
 堤の上に佇んだまま、今度は遥か沖の海から視線を徐々に手前に落としてゆく。
 足許の下にある浜辺の砂は以前と変わり無く白い。この砂の白さは私が何処で見たものよりも白く、美しい。
 透明な浜辺には一人の姿もなく、ゆったりと時が止まっているようだ。私はこの余りにも穏やかな時間を楽しむことが出来ずに戸惑い、怯えそうになっている。
 「辛いな・・」
 思い切って堤の上から浜の方へ飛び降りた。かなりの高さがあったにも拘わらず、衝撃は砂に吸収され、僅かな膝の痺れを感じただけで収まった。靴に入り込んだ砂を捨て、履き直す。白浜を少し歩いてみよう。幾分、気分が変わるかも知れない。砂の中に混ざった石英の粒が歩く度に光の反射を受けて、煌々と光る。
   波の音も、潮の香りも緩やかで静かな海なのに、じっと見つめているだけで引き込まれ、戻っては来れないような恐怖感に襲われてしまう。
 数十メートル程歩いてから、堤に背を凭れて腰を落とした。満潮が近いのか、波は足許にまで寄って来ては、また返す。結局、私は泣きたい気持ちになってしまった。それが怖いからなのか、悲しいからなのかは分からない。ただ、感無量の思いが襲って来る。本当に泣いてしまうのではと思うと、惨めになる。やはり理由が見つからないからだ。
 此処にいると自分の存在ばかりが、意識される。しかし、眠りから覚め切った今も、どうして此所に来たのか、未だによく理解できないままだ。
 孤独感に押し潰されないうちに立ち上がると、近くの石段を駆け登り、堤を横切り、小走りにバス亭のあった街の中へと戻った。





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