大 輪 2

 あの日の酒は俺の人生で一番旨い酒だったかも知れない。
 お坊っちゃん武藤の広いマンションは人で溢れた。殆どの部員、その友人達、女子体操部員、無理矢理に押し掛けた天満ファンの女子生徒など、まるで選手権に優勝したような騒ぎだった。天満は巧く皆で騒ぐための機会を作ったのだ。少しだけと言った黒澤も大人数を予想していたのか、僅かな練習の休みに入る前だったせいか、ウイスキーボトルを五本も持って来た。
 絨毯の上にどかりと座り込んだ天満は、両腕に侍らせた女生徒から注がれる酒を呷った。酩酊を深めながらも、近くに来る者には「飲め」と、自ら酒を注ぎ入れる。天満は鷹揚で口も悪いが誰とでも同じスタンスで付き合う。自分を飾らず、全部さらけ出して人と接するのが天満の持ち味であり、人を惹きつける魅力だった。そして、頻りに演技を誉め称える一年生には渇を入れる。
 「オマエらの仕事は太鼓持ちじゃねぇ。先輩方に酒をついでこんかい!」
 傍若無人だが馬鹿ではない。クラブでは上級生に対する気配りは怠らない。俺や黒沢のように先輩達の覇気のなさを批判したりしたことも一度もなかった。
 ボディコンシャス姿の理沙が天満の前にやってくると、ワニの頬にキスをした。周りからヒューヒューと野次が飛ぶ。
 「天満君、今日の鉄棒最高だったわぁ」
 「理沙ちゃん。着替えてきたんか。おお、見事な深い胸の谷間」
 「サービスよ〜」
 「ご褒美くれるなら、ちょっとだけパフパフさせてくれるかい?」
 「此処では駄目よ」
 「えっ、此処じゃ駄目?。体育館に行くか?」
 そう言うワニの顔は途轍もなく、だらしなくなっていた。
 あの時、天満は完璧な演技に酔っていたわけではないだろう。天満は皆との酒盛りを楽しんでいただけなのだ。天満はその時その時に光を放って生きる男だったのである。主役が理沙の腰を抱いたまま一足先に高鼾で眠ってしまってからも場は盛り上がり続けた。
 四、五人の女生徒は夢中の人となった主役の周りで、男天満を熱く語り、黒澤は先輩達を捕まえ、ワニの悪口を酒の肴にしてヘベレケになっていた。他にも男女入り乱れて談笑するグループ、合唱で盛り上がるグループなどに分かれ、その間を酒を飲めない武藤が困惑顔で散らかった部屋の片づけをしてまわる。俺はどれだけの女子部員を口説いたのだろう。あの日の全ての光景が微笑ましく、強烈な青春の一ページとして焼き付いている。

 天満が俺に悩み事を打ち明けたのは、選手権のひと月程前だった。練習の後、巨大なワニ男は臆病なミーアキャットの様な動きになって、周りに人気がないのを確かめると、俺に身体を摺り寄せて来た。
 「何だよ。気色悪いな。俺はノーマルだぞ」
 「そうじゃねぇよ。なぁ、新城。理沙の奴、俺が口説いてるのに妙によそよそしいんだ。本当に俺に気があるのかな。オマエ何か聞いてないか?」
 「へぇっ、オマエまだあの巨乳と出来てなかったのか。でも、何で俺にそんなこと訊くんだよ」
 「オマエは同じ学課だろうがよ。それに黒澤や武藤よりゃ、オマエのが女にもてる。女心訊くのも旨いだろ」
 「ま、まぁな。だが、残念ながら水産学課は大所帯でね、クラスが違うんだ。俺はあの娘と口もきいたことがない。ちょっと無理な相談だな。ラブ・ゲットは自分で決めろよ。ま、鉄棒みたいに落ちるかもしんないが」
 「オメエ、からかうなよ。冷てぇ奴だな。それが出来りゃオマエに話すかよ。女は鉄棒より難しいんだよ。俺にとってはな。なぁ、頼むよ。珍しく俺はマジなんだ。な、新城ちゃん」
 「あ〜、気持ち悪い。そんなに身体を付けるなよ!。分かったから止めろ。まぁ、オマエに貸しを作っとくのも悪かないだろうからな。一肌脱いでやるよ」
 「おお、本当か、すまんな。持つべき物は友ということだな。頼もしい奴だぜ。じゃ頼んだぜ。がはは」
 天満は俺の頬を猫のようにざらついた舌で舐めると、次はカンガルーに変身して、飛び跳ねながら更衣室を出ていった。俺はワニの七変化振りに唖然として、その後ろ姿を見送った。

 俺は気色悪い妖怪変化を早く素に戻そうと、その翌日の合同授業で見かけた理沙に声を掛けた。学食の片隅で俺は向かい合った彼女に真意を尋ねてみることにした。
 改めてじっくり見た理沙は思った以上に美人で、実のところ悉く女子部員から振られ、彼女のいなかった俺はひどく妬けてしまった。大きな瞳、厚めの唇、長い黒髪が印象的だった。そして、Eカップ以上はありそうな豊かな胸の谷間を惜しみなく覗かせている。天満の女を見る目は決して間違ってはいないようだ。あの野郎、ワニみたいな顔しやがってるくせに・・。天満が酒盛りの時、理沙を手放さなかったのは非常に正しい行動だった。全く、練習一筋かと思ってりゃ、結構抜け目ないぜ、あのワニ野郎。
 詰まらない役回りと感じつつも、忠実に天満の気持ちを理沙に伝えた。予想通り結果はオーライだったのだが、彼女は意外なことに悩み、天満への返事を明確にしていなかった。同じ体操部員の俺に少し気を許したのか、理沙は顔を赤らめて妙な質問をぶつけてきた。
 「あのう・・。身体の大きい人って、やっぱりアソコも、かなり・・かなぁ?。心配なんです」
 おい。そんな男がとろけるようなセクシーな顔して、今更何言ってんだよ!、ったく。
 それでも、お人好しの俺は好きならサイズが変化するから何とかなるんじゃないかとか、相撲取りも子供を作るとか、四分五裂のいい加減な解答をして彼女を納得させた。
 話しを聞いて少し安心した様子の彼女を見ながら、要らぬ想像をした。ま、まっさか?。ワニは道程、巨乳はバージン?。先に俺と試してみる?。いや、それは役割が違う。本当うまくいくんかいな?。やっぱ、余計な介入するんじゃなかった。グラマラスなボディを前に細やかな煩悩を抱えてしまっていた。
 別れ間際に彼女は選手権が終わるまで、天満には気持ちを伝えないで欲しいと言った。粋な演出でも考えているようだった。優勝でもしたら、自分を色鮮やかな紙に包装して、私がご褒美とか言って差し出すんだろう。ああ、やってらんねぇ。でも、そんな理沙の気遣いは十分に好感が持てた。いい娘だ。天満が落ち着いてくれれば別に言うこともない。
 そんな事だったので俺は天満には、彼女はまだ思案中なのだと伝えるしかなかった。
 「うむ。では、待とう。恋はいいもんだ。なぁ、新城。オマエも恋をしろよ。恋をな。がはは」
 バーンと、人の肩をどつくと天満は笑った。度胸の据わったと言うか、馬鹿と言うか、女が押しに弱いことなど知りもしないようだ。やっぱ、ワニの脳味噌なのかなと、俺は半分呆れてしまった。でも、それで天満は十分納得したようだったので、俺は黙りを決め込んだ。少なくともこの時まではアイツは幸せな野郎だった。
 俺達は秋の大学選手権に向けて猛練習を重ねていた。天満はあれから鉄棒で滅多に落下することはなかった。だが、豪快さも形を潜めていた。上位入賞を目指すことを決意し、失点を恐れての行動だと誰もが思っていたに違いない。それが出場メンバーを余計に燃えさせた。日毎にお互いの技の切れ味が深まるのを確かめ合い、密かな優勝への期待感も徐々に高まりつつあった。
 「やぁ、理沙。選手権まで後少しだ。見に来てくれよ」
 俺は校舎の廊下で見かけた理沙に声を掛けた。いつも通り学生とは思えないセクシーな服装だった。一段と色気が染みてきている。天満が恋敵でなかったら押し倒してしまいたいほどだ。
 「勿論、でも理沙が見るのは天満君だけよ」
 「当てられっぱなしだな。まあ、いいや。あいつが無理して落ちないように祈っておいてくれよ」
 「オ〜ケ〜!。新城君も頑張ってね」

 選手権を目前に控えた夜だった。
 寮には人気がなく、静かだった。俺は疲れた身体を布団に横たえて休んでいた。ふと意識が遠のくと、聞き慣れた声が頭に響いた。
 「新城、すまねぇ。ドジ踏んじまった・・。黒澤の怒鳴り声が聞こえそうだ」
 「怒りゃしないさ。あいつはオマエが努力していることを一番理解している人間だからな。どうした、また、落ちたんか」
 「ああ、落ちちまった・・・。だが、今度は取り返しがつかねえ」
 天満の声が消えかかると、扉がトンと小さく一回鳴った。俺はその音に飛び起きた。やっと聞き取れるほどの微かな音だったにも関わらず・・。まだ寝ている身体を起こし、扉を開けると目の据わった黒澤が立っていた。
 「どうした?」
 「天満が落ちた・・」
 「ああ・・。今、天満が来てそう言って、項垂れて帰ったところだ。オマエに叱られると言っていたぞ。一人で練習してたのか、あいつ?」
 「天満が来た?・・。新城、寝てたのか。残念ながらそれは夢だ・・。天満はもう選手権には出れない・・」
 俺は間違いなく寝惚けていた。
 「どうして・・?」
 「アイツは死んだ・・」
 「死んだ?」
 黒澤の目から大粒の涙がひとつ落ちた。
 俺がこれまでに見た中で、一番悲しい人の目をしていた。俺は漸く正気に戻りつつあった。黒澤は掠れた声で言った。
 「あいつ、ダブルスピンをやったらしい」
 「何!。そんなもの、現実に出来る代物じゃないぞ。一体、どういうことなんだ!」
 「密かに練習していたらしい。一年を補助に使っていた」
 「俺達に内緒でか?」
 「ああ、一年にこれが決まれば優勝だ、と言ったそうだ」
 「オマエ、一年生から聞いたのか。何故、止めなかった!」
 「一年は口止めされていたんだ。俺もついさっき知ったばかりだ・・」
 「・・・・」
 俺は完璧に目が覚め、現実に返っていた。自分の唾を呑み込む音が大きく聞こえた。
 「失敗して、鉄棒に頭を打ちつけて落下したらしい。なあ、新城、俺は病院へは行きたくない。あいつのくたばった姿なんか見たくな」
 黒澤は首を振って泣いていた。俺と会って堪えていた糸が切れてしまったようだ。床にポロポロと涙が落ちた。涙は留まることなくこぼれ落ち、遂に黒澤は膝を着いて号泣し始めた。
 俺の頭の中には天満が落ちた様子が浮かんでいた。現実の中での想像は剰りに残酷だった。
 ぐきっ!・・と、鈍い幻聴が鼓膜を響かせた。天満の首がバーに当たり、折れ曲がる姿が頭に浮かんだ。落下した天満の巨体は動かなかった。口からは夥しい血を吐いている。
 大馬鹿野郎!。オマエだって、採点方法ぐらい知ってるじゃないか。つまらない努力しやがって。やっぱりオマエは馬鹿だ。クレイジーだ!。ワニだ!。
 でも・・、天満よう、オマエはそんなに脆かったのか・・。項垂れて俺の処に来て、詫びなんか入れたって・・、これから、どうするんだ。一体・・。
 「どうすんだよぅっ!」

 俺は気がつくと向日葵に向かって叫んでいた。
 「新城、あいつは無茶な奴だった」
 黒澤が俺の肩を叩き、ポツリと口を開いた。
 「ああ、アイツはこのノッポと一緒だ。あれだけ皆に囲まれていながら、トットと逝きやがった。俺達は何も出来なかった」
 「太陽のように輝く大輪の最期には相応しくなかった・・」
 「だが、アイツは瞬間も気を抜かない奴だった。燃えて果てたんだ。チャレンジの度に怯えて生きている俺達とは違う。眩しい生き方だった」
 「あいつは幸せだったのか、新城?」
 「ああ、納得しただろう・・。やりたいことをやったんだ」
 俺は自分に言い聞かせるように言った。
 「じゃ、なんでこいつは項垂れているんだ?」
 黒澤の瞳が赤く充血している。
 「そう言やぁ、天満もひとつだけやり残したことがあった。それで落ち込んでいる」
 「何なんだ?」
 あの年、天満の事故のために、俺達は選手権の出場権を失った。気の遠く成るような一年を待ち、翌年の選手権に挑んだ。選手控え場にやって来た理沙はやつれて見えた。
 『天満君の分まで頑張ってね』
 『ああ、今度のメンバーに華はないけど、それなりにやってみるよ』
 『最後まで見てるから』
 『力強いよ。あいつがいるようで』
 『・・あたし、結局、バージンのまま二十歳になっちゃた』
 理沙は目を赤く腫らしながら、微笑んだ。俺は頷いた。もう掛ける言葉は見つからなかった。それ以降、理沙と言葉を交わした記憶はない。俺は暫く理沙の淋しげな顔を思い浮かべていた。
 「何なんだ?。教えろよ」
 《理沙と一発もやれなかったことさ・・》
 それは言わないことにした。今更黒沢を悲しませる必要はない。
 「勿論、俺達と選手権に出れなかったことさ」
 「・・そうだな」
 黒沢は深い溜息を吐くと、水筒を持って立ち上がった。炎天下の中に足を踏み出すと、ガードロープを跨いだ。そして、向日葵の根本に水を撒いた。
 「これで、少しは元気になるだろう」
 「ああ、そうだな。さあ黒澤、行くか。後は下りだ。飛ばそう」
 もう黒澤が泣くのを見たくなかった。バンカラ天満も二人に泣かれるのは嫌だろう。
 俺と黒沢は自転車を起こし、向日葵に別れを告げる。
 俺達は今、天満の七回忌を済ませた。

堀江修、岩間和彰、鈴木新寿に贈る
一九九六年七月十五日 作





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