《薔薇の迷宮》


薔薇の迷宮 1


 隣にいる男が気になっていた。
 優子は照度が落ちた店内の一番奥の席に座って一人カクテルを味わっていた。ダーク・アンバーの長いカウンターの席は、さほど時間が経たないうちに埋まってきた。今日は時間が早い割に若いカップル達で賑わっている。いつもより少し甲高い笑い声が、店に響いていた。男が隣に座ったのはもう優子の左脇の席しかなかったからだ。
 男が気配を感じさせない程物静かに椅子に着いた時、仄かにコロンの匂いがした。優子はその香りが国産品ではないと感じて男を意識した。男はグレーのダブルのスーツを身に纏っている。立たなくても長身とわかる。背筋が伸びていた。優子は顔を動かさずにそこまで察知することが出来た。殆ど優子には気を留めていないようだ。
 男も一人、グラスを傾けている。がっしりとグラスを握った指が男らしい。物思いに耽っているのか、流れている映画音楽に聞き入っているのか、正面を見据えたまま琥珀色のワイルド・ターキーを口に運ぶ。
 男の視線の先のボトル・ボードはブルーライトに照らされ、沢山の種類のアルコール瓶が浮かび上がっている。優子の顔は瓶を見る振りをしながら、少しづつ男の方へ向いていった。
 《待ち合わせかしら?》
 鼻梁が通り彫りが深い。長く濃い眉を持っている。男は一人でいることの不自然さを感じさせない。孤独と飲むことに慣れているようだ。男は絶妙なタイミングでバージニアスリムリムを取り出しては、立てた指先を水平に口元に運び、深く吸う。吐き出した煙が薄暗い照明の下で、妖艶な踊り子のように揺らぐ。踊り子は優子の席の前にある二本の深紅の薔薇の処まで降りてきて姿を消した。
 優子は寡黙な男に徐々に惹き込まれていく。
 《こんな二枚目には久し振りにお目にかかったわ》
 動作のひとつひとつが成熟した男の色気を漂わせる。ポーズを作っているようには見えない。決まり過ぎている。でも、この男にはそれが赦される。映画俳優が演じる演技でも、ここまで出来ないだろう。
 《今晩はついているかも・・》
 男と隣り合わせて三十分程が経っていた。待ち合わせではなさそうだ。男は腕時計を一度も見ない。しかし、優子の顔も一度も見ない。これから起こるであろう予感に期待が膨らみながらも、時は垂々と流れてゆく。
 《どうしたの?。私は一人よ。隣に私がいるわよ。この街では隣にいる一人の女性に声を掛けるのが礼儀じゃない》
 「智ちゃん、ラム・バックをお願い」
 智ちゃんと呼ばれた短髪がよく似合う若いバーテンダーは、クールな表情で押し寄せるオーダーの波を消化していたが、優子の前に来ると屈託のない笑顔を作った。
 「優子さん、今日はピッチ早いですね。もう、三杯目ですよ。大丈夫ですか?」
 「そうね、明日は二週間振りの休みだから、今夜は少し羽目を外そうかな。独りじゃちょっと寂しいけどね」
 「折角来てもらって、お相手したいんですけど、ご覧の通り今日の土曜日は久し振りに混んじゃって。おまけにスタッフも少なくないもんだから」
 「いいのよ。頑張って。名カクテラーさん。今日も蝶ネクタイが決まってるわよ。でも、給料前の六本木で珍しいわね。今日の人混みは・・」
 優子が店内を見回そうとした時、隣の男と目が合った。
 男は正面から見ても惚れ惚れするようないい男だった。男は微笑み、軽く会釈をしてきた。優子も連れて頭を下げる。
 不用意な接触だった。優子は男が粋な決まり文句で声をかけてくるものと信じていたので、ちょっと損をしたような気持もあった。
 二人に切っ掛けが生じたのを見て、若いバーテンダーは仕事の顔に戻り、カウンターの奥へ足りないレシピを取りに消えた。
 「よく、いらしてるんですか?」
 「ええ、たまに・・」
 男の口調は柔らかかった。緊張感を与える間もなく、スウーと耳に入り込んでくる。下心が垣間見えるお子ちゃまな男達や、気取った外国人達から為される強引なアプローチには馴らされていたが、この男が見せたものは穏やかで純朴な表情だった。
 「カクテルがお好きなんですか?」
 《次は僕からも一杯、プレゼントさせて下さい・・とは、言わないのね》
 男は優子のグラスに少なくなったパステル色の液体を見て言った。
 「いえ、何でも飲むんですけど、さっきの眼鏡の男の子、智ちゃんが新宿にいた頃から、色々なカクテル作ってくれたので、店に来ても最初はカクテル貰うんです」
 「ああ、さっきの若いバーテンさんと知り合いなんですね」
 《ひょっとして、少し年下の恋人かな?。彼もなかなか素敵な男性だよね》
 「彼がバーテンダー・スクール卒業して、働き出した時の一番最初の客が私だったんです。まだ、丁度20歳でガチガチだったの。今みたいにお客さんとも全然話しも出来なくて、その時の初々しさが気に入って、六本木に移っても適に顔見に来てるんです」
 優子は店の人間と付き合いがあることをそれとなく伝えておく。優子は両手で夾んだグラスをクルクルと廻す。
 「へえ、でも彼、まだ23だったよね。若いのに本当に上手だよ。初めてワイフを連れて来た時も、彼女の顔見て、ピッタリ好みのカクテルを出してくれて、彼女随分と喜んでたものなあ。普通はそんなことが出来るようになるのに何年もかかるっていうのに、将来は一流に成れそうだね。話していて感じもいいし」
 《それに、君みたいな魅力的な女性が通って来てくれるなんて、彼は幸福者だね》
 優子にとって智ちゃんは特別な存在ではない。従順な年下の遊び相手、と言ったところだが、知り合いを褒られて悪い気はしない。
 男も店には時々顔を出しているようだ。この男の情報は智ちゃんから入手出来そうだった。優子は見知らぬ男と話す時には、女なら誰でも見せる警戒心を少しづつ脱いでいく。男は気の利いた科白を言えるタイプではなさそうだったが、気取りなく話すことが優子をリラックスさせた。残念なのは男が結婚していることを、あっさり話してしまったことか。これだけの美男子で、年齢も35、6なら売れていても何の不思議もない。しかし、男の指に指輪はなかった。
 智ちゃんがラム・バックを差し出した。優子は前のグラスを飲み干して空にする。
 「僕もターキーのオン・ザ・ロックをお代わり。グラスはそのままでいいよ」
 《今夜は素敵な女性が隣で僕もお酒がすすみそうだ・・って感じ?》
 智ちゃんは手際よく氷を加えると、美しい瓶音を奏でてターキーを注いだ。
 「乾杯しましょうか。僕は森元っていいます。森元丈治です。丈夫の丈に、政治の治。あなたのお名前を訊いてもいいですか?」
 《でも、本当はね、ジョージ・ファーストウッドと言うアメリカ在住の日系人です。あなたはひょっとしてフレンチとのハーフかな?。大きな瞳が魅力的だ》
「私は・・雪枝っていいます」
 優子がそう言うのを聞いて、前でシェーカーを振っていた智ちゃんの顔が怪訝そうな表情に変わる。優子は目配せをして微かに頷いた。優子にも咄嗟に何故自分がそんな嘘を言ったの判らない。
 「じゃ、お近付きの印に乾杯」
 《そして、君の美しい瞳がいつまでも色褪せないことを願って。チアーズ!》
 「ファ・・、いえ、森元さんはお仕事何していらっしゃるんですか?。土曜日にスーツ姿なんて」
 「一年中仕事に追われている歯牙ないサラリーマンですよ。特典と言えば、安く旅行が出来ることぐらいの」
 《でも、世界中何処へでも行けますよ。銀色の翼でね・・。パイロットかしら》
 「あなたは?」
 《きっと、モデルさんでしょ?。容姿も美しいし、服装も洗練されてる》
 「私は銀座のデパートでマヌカンしてます。と、言ってもアパレル中心の派遣なんですけど」
 「ああ、何となくそんな感じがしました。とっても華やかで販売にはピッタリの人だ」
 《華やかはいいけど、ピッタリは嫌ね。せめて、あなたが売る物なら何でも買ってしまいそうだ・・ぐらい言って》
 「森元さんも店へはよくいらしてるの?」
 「僕は月に二回ぐらいかな。でも、一人で来た初めての日に、こんな美人と飲めるとは夢にも思わなかった」
 《そう、いいわ。その調子。やっと、妖しくなったわ》
 「今日は奥様はどうしてらっしゃるの?。いいんですか、ウイークエンドに飲んでらして」
 「・・ワイフは亡くなりました。今年の二月に。店にはよく二人でも来てたので、思い出の場所のひとつなんですよ」
 「ご、ごめんなさい。余計なこと訊いちゃって」
 《ラッキー、今独身じゃん。早く言ってよ》
 優子は思わず自分が笑みを零したのではないかと、慌ててグラスを呷った。
 「いいんですよ。もう、すっかり立ち直ってますから。それより、あなたみたいな美人こそ、一人で飲んでるなんて不思議だな」
 《僕みたいな悪い男に騙されますよ。騙されてもいいと思うぐらいの男とやっと会えたわ》
 「なんか、わたしって冷たく見られがちなんです。だから、友達になってもらうのにも時間がかかるし、沢山は出来ないから・・、結構独りぽっちで遊ぶことが多いんです」
 「綺麗な女って意外と損するみたいだね。男って相手が美人だと、変に肩に力入るものだから、意外と引いちゃうんだよね」
 《ま、僕ならこんな美人を放って置きはしないけどね》
 「それに最近の男の人って、なかなか真剣に口説いてくれないから、友達には成れても恋人作るってなると本当大変なんです」
 「そう言えば、社のOLも男の本音がわかんないってぼやいていたなぁ。浅く広くが主流なのかな」
 「いくら時代が進んでも、やっぱり女からは簡単に言い寄れないし、女が押して欲しい生き物であることは、今も昔も同じだと思うんです」
 優子は言葉に含みを持たせるが、自分が柄にもない話しをしていることには、お構いなしになっている。森元から感じる包容力に自然に愚痴口調で甘えている。でも、優子はこれまで一人で十分に楽しく男達と遊んできた。本気で恋人を持とうと思ったことがあっただろうか。
 「若い女性も大変なんだね。雪枝さんでもそう感じているのだしね。気の弱い男が増えたのかな。それとも傷ついてまで恋愛する気はないのかな。本当に意中の女が出来た時、今の男はどうするのだろうね。僕はもう結婚願望はないけど、昔は玉砕覚悟でアタックしたけどなぁ・・」
 《でも、雪枝さんを見てると、もう一度チャレンジしてみたくなるな》
   「おまけに私みたいに背が高い女は余計男性から敬遠されるみたいで・・」
 優子の中で多少真実だった愚痴が偽りへと変化していく。モデル張りのスタイルの優子は身長で損をした記憶はない。
  「背はどのくらいあるの?」
 「私170少し、あるんです」
 「それじゃ、僕とは丁度いいね。僕は180以上あるからね。僕となら何処を一緒に歩いても大丈夫だよ。でも、部屋の中に二人だけなら、人目を気にすることもないんだけどね」
 《それって、アプローチのつもり?。いきなり部屋?。ちょっと甘いわね》
 それだけの科白を照れくさそうに言うと、真っ白な歯を見せて笑った。魅惑的なスマイルだった。森元は照れから逃げるように立ち上がった。
 「ちょっとレスト・タイム。逃げないで待ってて下さいよ。これからが僕も本領発揮だから」
 《本領発揮?。ちゃんと迫れるかしら、嘘の付けない不器用さん。でも、あなたの容姿は充分に私を痺れさせてくれるわ。可愛い男。その調子で頑張って》
 優子は少しまわってきたアルコールに自分のプライドを溶け込ませ始めていた。
 「優子さん、大丈夫ですか。一人ニタニタしちゃって。何か変ですよ」
 気付くと智ちゃんが目の前で怖い顔をしてグラスを拭いている。
 「そんなこと、人前で言わないでよ。無粋ねぇ。ねぇ、ねぇ。ところで智ちゃん、森元さんって何してる人。よく知ってる?」
 「そんなによくは知りませんけど、船舶会社で事務関係のお仕事をされてるみたいですよ。今日は一人で見えられたみたいだけど、前はよく会社の人なんかと来られて、一生懸命仕事の話しされてましたから」
 「船の方か。パイロットじゃないのね」
 「ええ、VIPを運ぶのは大型客船じゃないと失礼だし、その方が安心だとか、外人の方と話してるの聞きましたから。きっと、国賓とか扱う重要な仕事されてるんじゃないかな。英語はペラペラですよ」
 「あら、智ちゃんって、そんな会話解るほど英語に堪能だったかしら?」
 「僕だってそのぐらいはわかりますよ」
 智ちゃんは優子の前では感情を隠さず膨れてみせる。
 「ふふ。そうみたいね。ワイフの発音が自然だもの。でも、ハーフじゃなさそうね」
 「ええ、ご両親は僕と同じ九州出身のようなこと聞いたことありましたから。でも、森元さん、何度か外人の女性連れて来られてたから。凄い美人だったなぁ」
 「奥さんね、きっと。スチュワーデスだったのかしら。もてるでしょうね、森元さんって」
 「えぇ、優子さんだけじゃなくて他の女性のお客さんにもあの人、何やってる人ってよく聞かれますよ」
 「やっぱりね。今フリーならほっとかないものね。ねぇ、今年奥さん亡くなったって本当かしら」
 「えっ、森元さん、そう言ってました?。知らなかったなぁ。じゃ、前に連れて来た美人、奥さんだったのかなぁ。でも、どの人だろう?。随分沢山の女性・・」
 智ちゃんが続けようとした時、森元が戻ってきた。
 「私もちょっと、行って来ますね」
 優子は森元と入れ替わりに思い立ったように席を立った。今日は丁寧に化粧をしてこなかったように思う。優子はカップルの男達の羨望の眼差しを感じながらトイレに向かう。気分がいい。どの男達も、私と隣にいる女とを、心の中で比べているだろう。
 優子は鏡の前でアイラインに手を加えながら、これからのことを考える。智ちゃんからの少しの情報で安心感は深まった。いつものように、この程度の男でいいかという妥協なしに酔えるのは久し振りだ。
 優子は胸の高鳴りを覚える。時計を見るとまだ十時半を少し回ったほどだった。化粧を整えた優子は鏡の前で一段と自分に磨きが掛かったことを確認する。
 《OK、これで完璧ね。蜘蛛女の出来上がり》
 優子は自然に腰を振りながら席へ戻った。





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