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僕は一瞬、何処にいるのか判らなくなった。人気もなく、車も通れないような小径が真っ直ぐに伸びている。そして、其処には何と目映いばかりの黄金色の絨毯が延々と敷き詰められているではないか!。「いやぁ、今年も満開だ」 先を行く伊達氏が満面の笑みで振り向いた。小径には蒲公英の花が一杯に咲き乱れ、鮮やかな黄色い花道を造っていた。 「おぉ、これは・・、美、し、い」 「そうでしょう。毎春ここを散歩するのが楽しみなんですよ」 「蒲公英が・・、こんなに、何て・・」 「辛そうですね。息が上がってますよ。少し休みますか」 「ええ、先週、雨で・・、一回、抜いたのが、どうも・・、いけ、なかった、ようです」 伊達氏は僕の剰りに荒い息遣いが気に掛かったようだ。 「では、そこで少々・・」 僕達は道の脇から突き出した大きな石にゆったりと腰を下ろした。 目映いばかりの美しさを俳句にでも詠んで、歌心のひとつも披露してみたいのだが、息が上がって言葉を発することが出来ない。俯くと汗が足許の蒲公英の上に落ちる。 息を整えていると、ザッ、ザッと竹箒が土を擦る音が響いてきた。手拭いを頭巾にした小柄な女性が道を掃除している。溜まった木の葉や砂利を集めながら、徐々に此方に近づいて来る。 大分近寄ってから彼女が決して若くはないことに気付いた。姿勢がしゃんと伸びていたので年齢が判らなかったが、近頃では珍しい装い、藍染の作務衣に丹前を羽織った年輩の女性だった。 「朝早くから御勢が出ますね」 伊達氏が優しく声を掛けた。僕も同じだけの優渥な心遣いは持ち合わせているつもりだが、何せ息が上がって言葉が出ない。ただ頷くのみ。 「あら、今日もジョギングですか。そちらさんも、頑張れてますわねぇ」 女性が頭巾を取って額の汗を拭った。現れたのは優艶とした老婆の顔だった。ひょっとすると年齢は八十を越えてるのではないだろうか。ただ年老いて出来たと云うのではない歴史を刻みこんだ深い皺を惜しげもなく晒け出し、吸い込まれるような顔を作っていた。品位は年齢と関係なし、という証明の様な麗顔である。 「水曜日にもお会いしましたねぇ。足も速く成られて、すっかりお顔の色もよくなられましたこと。何よりですよ。私ももう少し若かったら、お供させて頂けたかしらねぇ」 これまで、上機嫌で先導してきた伊達氏の顔が急に困ったような表情に変化するのを僕は見逃さなかった。どうも、変である。今、老婆、いや、おばあちゃんが言ったことが確かなら、彼は他の日にも走っていることになる。 「い、いや、おばあちゃん。それは人違いですよ」 「いえ、いえ覚えておりますよ。若い方はよく見かけますけどね。お宅様達と同じ位の方は滅多にお見かけしませんから。まだ惚けてはおりませんからねぇ」 「はは、そうですか。いやぁ、おかしいな」 伊達はロマンスグレーの髪を掻きながら、照れ笑いを浮かべている。 やはり、そういうことなのか、彼は僕には内緒で日頃から忠実に走り込んでいるようだ。どうも彼も多少は見栄っ張りのようらしい。若い頃なら些細な裏切り行為にも業腹になった僕だが、最近は怒るようなことは滅多にない。むしろ、こうなると僕の方がどういう顔をしていればいいのか判らなくなるから不思議である。彼はこの場を早く立ち去りたいに違いない。が、伊達氏は顔色が良いと言われたのが余程嬉しかったのか話しを止めようとはしなかった。 「いやあ、おばあちゃんが矍鑠としてらっしゃるのには驚きましたよ。私もそんな風に年がとれればいいんですが」 「ええ、ええ、大丈夫ですとも。くよくよしないことですよ。悩んでも仕方のないことも人生には多いですからねぇ」 石に座り込んだまま、蒲公英の道で交わされる会話に耳を傾けながら、僕は本当の自分の年齢を感じ、楽しんでいる。遥か昔に聞いた事があったような何気ない挨拶に全く違和感を感じない。僕は蒲公英の次に相応しい聞き手であるに違いない。 「おばあちゃん、そう言えばいつも綺麗にされていらっしゃいますよね。いえ、掃除のことじゃありませんよ。お化粧、欠かさずなさってますよね」 彼の言葉に反応して僕はおばあちゃんの表情を見つめた。彼女の笑顔は辺りに咲き乱れた花以上に一段と明るく輝いて見えた。 「あら、嬉しい。気付いてくれてたんですねぇ」 「ご主人がうるさいんですか」 「いえいえ、主人はもう三十年も前に亡くなってますからねぇ」 「そうですか。それは失礼しました。でも立派ですよ。早起きされて、お掃除の時でも気を遣われていて。今の若い人達にも教えてやりたいですよ」 「ええ、だって、いつまた素敵な殿方に見初められるかわかりませんものねぇ」 泰然自若、笑顔は明るいだけではない。ぞくっとするほど艶っぽかった。伊達氏もその一言に深く感慨入ってか、茫然とおばあちゃんの顔を見つめていた。 僕等はおばあちゃんと別れを告げ、黄金の小径を後にした。 「素敵なおばあちゃんでしたね」 「ええ、私も頭巾の下の顔を改めて拝見しましたけど、あの方の美しさは心持ちから来ているんですね。 ジョギングよりも爽快な気分を味わいました」 流石に文学部の教授だけあって気の利いたことを言う。居職に佇まう彼の仕事は伊達ではないようだ。僕等は樹木の葉が芽吹いてきた公園の中を走り続けた。漸く呼吸が走りの流れに合うようになってペースは上がってきた。珍しく伊達氏を追い抜きそうになった。彼は急に走りを緩めて、深い溜息を零した。 「どうされました。具合でも悪くなりましたか」 別に彼の顔が青くなったようには見えなかった。 「いえ、急に走るのが莫迦莫迦しくなりました。考えてみたら、私の人生は無駄に走りすぎです」 「はあ。では、また、歩きますか」 「お時間は大丈夫ですか」 「まだ、余裕は十分ありますが」 今日はもう仕事に行く気がしなかった。浄化された心を雑務に追われて失いたくなかった。 「歩きながら、私の話を聞いていただけますか?」 伊達氏は妙に改まった口調になっていた。 「はあ」 「私は倉橋さんに嘘を吐いておりました。すいません」 「ああ、他の日も走ってらしたのですね。偉いじゃないですか、本当は僕なんか週に一回走るのも辛っくって嫌気がさしていたんですよ。それにマシンまで買われて体を鍛えておられるんですから、ご立派です。私にはとても真似が出来ません」 「いえ、ウォーキングマシンは使っていません。そんな物を買えるほど、大学の講師は高給ではありません。私は教授にはなっていないんです。これからも成る事は出来ないでしょう」 噸だ告白を聞かされて僕は戸惑っていたが、彼は上擦り気味な口調で話しを続けた。 「この前お立ち寄り頂いた時に、家政婦と言った二人の女性は私の内縁の妻です」 「えっ、そうなんですか、凄いじゃないですか・・。奥さんを二人も抱えて同じ屋根の下に住まわせていらっしゃるなんて、普通の男の裁量と甲斐性じゃ出来ませんよ」 僕は伊達氏の表情が険しくなるのを感じて、務めて御愛想に徹することにした。 「いえ、二人とも財産が欲しいだけなんですよ。我家は元々は華族の出身で、大正時代まではあの敷地の十倍ほどの土地を持っていたんです。それが税金や財産分けで減っていった事実もあるのですが・・、一番の原因は女遊びと博打なんです。私は財産を減らした事があっても、増やしたことは一度もありません」 「はあ・・、旧華族のご子息ならではの豪放磊落さですな。まだ、そんな剛毅な方もいらしたんですね。しかし、名家の御出身だったとは」 何と空々しい追従だろう。それにしても彼が大変な人物には変わりはない。 「妻達は、私の昔の遊興の果ての産物でして、二人には私の子供がおりますので、ああやって家を離れずに頑張っているのです。子供達は認知をしたのですが、自分達も持ち分が欲しいのでしょう」 「でも、二人とも楚々としたいい女性じゃないですか。僕が伺った時は伊達さんを敬っているように思いましたけど」 「人前ではそうしているのです。彼女達は立ち回りが上手ですから、どちらも籍に入ろうと躍起なんです。三人でいると、私は二枚の婚姻届けを前に板挟みの毎日なんですよ。まぁ、身から出た錆と言えば、そうなんですが」 「持てる男の悩みでもありますなぁ」 狸オヤジの懺悔話しとあしらう事もできるが、悲哀を感じる部分がないわけでもない。知らぬ半兵衛を決め込むには共に汗を流しすぎたかも知れない。 「私は名前の通りの全てが伊達の伊達男なんです。こんな私でもこれからお付き合い願いますでしょうか?」 最後の科白は気が利いていた。僕は青空を眺めて考えた。彼と付き合って僕が損をすることは何もないように思えた。 「今後とも宜しくお付き合いの程を」 「いやぁ、これは有り難い。あの付近では私は未だに放蕩者のレッテルを厳しく貼られてましてね。みんな、上辺の付き合いはしてくれるのですが、中々心を打ち明けられる友人が出来ずに困っていたのです。いや、本当に越して来られたのが倉橋さんのような寛容な方で助かりました」 「いえ、私もご近所で話しを出来る方がいるとほっとしますよ。私も家では粗大ゴミ化していくばかりでして」 「いや、お時間をとれせました。走ってもどりましょうか。お仕事の時間に間に合わなくなる」 「いやぁ、実はさっきもう一つ忘れていたことを思い出しました。今日は3月2日ですよね?」 「そうですが」 「今日は会社の創立記念日で休みでした。三連休だったんです。やれやれ、ここで思い出してよかった」 嘘を言った。 「そうでしたか、私も今日は授業の受け持ちがありません」 伊達氏も嘘を言っているのかも知れなかった。でも、気持ちは多分一緒なのだろう。永い人生に感激に酔うだけの日があっても悪くはないだろう。僕達は遊び惚けていただけではない。それなりに仕事も一生懸命にやってきた。そして、まだまだ僕達は働き詰めなければならないのだ。 「どうです、その辺の木陰で一眠りしてから、ご一緒に蕎麦でもいかがです。東小金井の駅傍にw庵庵xという、蕎麦屋が出来たんですよ。ご存知ですか」 「ほう、それは知りませんでした」 僕の気分はすっかりお休みモードとなって、彼を巻き込むことにした。 「店長の山口さん、日本史を語らせたら、ちょっと蘊蓄の深い人でしてね。紹介しますよ。話しが面白いですから。そこでキュウとやりましょう。汗を流した後のビールは格別ですからねぇ。私にご馳走させて下さい」 「それは、いいですねぇ。私の専攻も日本史ですからね。少しご教授して差し上げましょう」 「それは喜ぶ。いや、いやがるかも知れないですね。それだけはお客より一番でいたい方ですから」 「じゃ、新しいお友達を失わない程度にお相手してもらいますか」 「それがいいです。そうして下さい。寝た後、そこまで走りますか」 「ええ、思いっきり走りましょう」 僕のお人好しは治らないようだ。でも、時々はこの情けない事なかれ主義を愛したく成る時もある。多分、今がそんな時に違いない。 二人の壮年は芝の上に大の字になって、目を閉じた。彼はいち早く鼾をかき始めていた。何もかも晒け出してホッとしたのだろう。隣の怪音が気になることもなく意識は心地よく薄れてゆく。 僕は蒲公英畑に佇んで美人ちゃんの夢を見た。若かりし頃の僕は一生懸命彼女に話しかけようとするのだが、隣にいた青年が滑らかな口説き文句を連発して、僕の出る幕はない。僕が腹を立てて抗議しようとすると二人は腕を組んで行ってしまった。その時、誰かが後ろから僕の肩を叩き、言った。 「貴方には私がいるじゃない」 妻がにっこり微笑んでいた。 そこで目を覚ました。伊達氏はもう目覚めて芝生の上でストレッチ体操をしている。僕も起きあがって体を解した。彼に文句は言わなかった。 「随分、寝てしまいました。もう二時ですか。丁度店も空いているでしょう。行きますか、伊達さん」 走ってもいないのに南中の暑い日溜まりで、僕達は汗ばんでいた。 「では、行きましょうか」 伊達氏は十歩程走って、すぐにコテと転倒した。頭から白い髪がポロリと転がった。彼は芝を払い落としながら立ち上り、光る頭を掻いた。 彼は落とした鬘には気がついていない。でも、僕は困惑の顔をすることもなく、それを拾い上げて彼に手渡した。 「あっ!」 彼は頭を撫で廻した。 「いやはや、これでもう倉橋さんには隠し事がなくなってすっきりしました。ははは」 「大丈夫ですか?」 「ええ、平気です。笑顔の眩しい美人の夢を見て、ちょっと舞い上がってしまったようです。また、待ってますよなんて、言われたもんですから」 僕等は似たような夢を見ていただけではない。家に連絡することを二人ともすっかり忘れていた。 一九九七年七月二十日 至
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