《ダンディライアン》 


ダンディライアン 1 

 僕の顔はドナルト・ダックになっていた。尖った唇の先からプラスチック棒を突き出したまま、呆然とした団栗眼と向き合っている。
 起きてから僕は洗面室にもう半時間ほど立て籠もっている。珍しく早く目覚めた僕を襲ったのは、凍りつくような衝撃だった。余裕ある時間が人を愕然とさせることもある、ということに久しぶりに気が付いたわけだ。鏡の中にあるのは紛れもない壮年に突入した自分の顔である。僕はもうすぐ五十一歳になろうとしている。だが、映し出された現実は余りにも手厳しい。信じられない気持ちで我が変わり果てた容貌にしみじみと見入ってしまう。
 一体全体、いつ年をとってきたのだろう。腹の関取化と、髪の仏門化は思った程ではない。気持ちも若い若いと褒めそやされてきた。しかし、この弛みきった油顔を見ていると内面と外観のギャップに悲しくなるばかりである。これでも同期の連中よりは多少はましらしいのだ。だが、もう若者に混じってカラオケで最新曲を熱唱するのは考えなくてはならない。いや、もう絶対しない。僕がシングルCDを五十回も聴いて、苦労して覚えていることも知らずに、内心、若き部下達は呆れているに違いないのだ。何て莫迦なことをしてきたのだろう。五十過ぎのオヤジが浮かれてすることではない。
 「お父さん、急がなくていいんですか?。お食事の準備出来てますよ。今日は金曜日ですよ。どうするんですか」
 「ひま、ひくひょ」
 僕は歯ブラシを引き抜いて、鏡と決別することにした。どれだけ、見てたって若返る筈もない。現実とは悲しいものである。
 僕は久々の爽快な目覚めを老いた自らの顔でボロボロに壊されて、何か遣りきれない気持ちで妻の声がするダイニングルームまでスリッパを滑らせた。
 どうするって、勿論仕事に行くに決まってるじゃないか。時間はたっぷりあるだろうに。聞き慣れた六歳年下の妻の口調も今朝は少し疳に触る。昔はダイエットをし過ぎてガリガリだった妻も、いつからか、まるまるの魔法が罹ったままだ。もう、生涯呪縛から解き放たれることはないだろう。籠城している間に子供達は先に食事に取りかかっている。僕は家族が集まった食卓に座り、新聞を拡げてから気が付いた。
 「母さん、眼鏡此処に置いてなかったかね」
 「お父さん、額の上にあるでしょ。詰まらないテレビのCMみたいなボケしないで下さいよ」
 「あ、うう」
 もっと深刻なのは容姿より、頭の中の方である。さっき顔を洗うときに眼鏡を掛けたまま顔を洗ってしまい、ずり上げた侭にしていたのだ。正直言うと最近では情けないほどちょっと前のことも思い出しづらい。数分前にどこかに置いた物を探し回るのは茶飯事で、レンタル店から同じビデオを借りてきてしまう。しかも、途中まで内容を全く覚えていない。父さんって、そのエッチなホラー映画本当に好きね、何度も見て、と娘達に揶揄されることも度々である。ビデオ店の店員からしてみたら、変態フリークオヤジに間違いない。
 おいおい、まだ早いだろ惚けるのには、・・と自分で思いつつも症状は進んでいくようだ。加えて新しい症状もある。これは凄い。人に話している間に何を話そうとしていたのか忘れてしまうのだ。物忘れより質が悪い。話している間に突然のナルコレプシー状態に陥ったかの如くに論点を喪失し、話しの辻褄を合わせるのにどっと冷や汗をかく。
 まぁ、言ってみれば、正月に蚊帳の中でハードロックを聞きながら、褌姿でピストルの構えを練習しているような?、内容に陥るわけだ。説明になっているのだろうか。まあいい。
 話しのタイタニック状態に陥るまで、真剣に聞いてくれていた人はちょっと怪訝そうな顔をするが、酒席でのことなので、まだ大事には至っていない。だが、人前での祝辞、弔辞等のスピーチは絶対に受けてはまずいだろう。
 「ご飯でいいんですか?」
 「いや、僕もパンを焼いてもらおうか」
 隣の席の静香が、本当にいいの、という顔で僕を睨む。はて、今日は何か急ぐような用事があったか?。いや、会社のスケジュールを忘れる程はボケてはいない。僕は自信を取り戻して新聞の活字を追った。
 「倉橋さん。おはようごさいます」
 溌剌とした伊達氏の声が玄関前から届いてきた。
 「しまった!。今日は金曜日か。かあさん、ジャージ、ジャージ」
 僕は能々と読んでいた新聞を投げ出して、立ち上がった。立席してはみたものの右往左往するばかりで何も手に付かない。
 「お父さん、邪魔よ。テレビ見えないわ。もう、約束の曜日まで忘れないでよ」
 静香はトーストを包張りながら、しっしと手払いをする。今年二十二歳になる長女の綾乃は笑ったままで何も言わない。
 「そこにちゃんと用意してあるわよ」
 妻が僕の隣の席にあるジャージを指さす。素直に感謝すればいいのだが、つい言葉は裏腹になって、出る。  「かあさん、覚えてるなら、言ってくれてもいいじゃないか。今朝は時間はたっぷりあったのに」
 「だったら、洗面所でナルしてないで、早く出て下さいよ。今更、どうにもならないんですから」
 腹立たしいが妻の意見に納得しながら、慌ててその場でジャージに着替える。
 「お父さん、こんなところで着替えないでよ」
 静香の侮蔑の視線を後に、スリッパも履かず小走りに玄関に向かった。
 「伊達さんに待ってもらって、ちゃんと準備運動して下さいよ。今、ジョギングして倒れられたら、本末転倒ですからね」
 妻はシューズを並べながら、きちっとしたことを述べたもう。でも、昔はお色気むんむんのヤンキー姉ちゃんで僕の前に男が何人いたかだって知ってるぞい。昔のことはしっかり覚えているんだ。どうだ参ったか。我妻が僕に頭が上がらないのも仕方のないことだろう。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。伊達氏を表に待たせたままだった。
 彼とは僕が西武多摩線の霊園前に引っ越してきて早々に知り合った。三鷹までのバスの時間に遅れそうだった僕は、自らの酒臭い息に苦しみながら、小走に停留所へ向かっていた。書類を歩道に豪快にバラ撒いているとは露知らずに。その書類を彼が一所懸命拾って追いかけて来てくれたのが縁だった。
 あの朝、僕は前夜の酔い戻しが来ていてハイテンションだったのだ。衆前であるにも関わらず、手を握りしめ頭を下げまくって彼の厚意に感謝感激したのだ。実はさして重要な書類でもなかったのだが。そして二人とも定時のバスが目の前を過ぎていくのを見送ったのだった。
 思い出すと恥ずかしくなってバス停に赴く足が重たい時もあるが、あの時僕が彼の連絡先を聞き出して縁が繋がり、私達は時々駅前で飲むようになった。
 伊達氏は偶然にも僕と同級だった。皺の深い顔に懐古的な黒縁眼鏡、痩せこけた体、どちらかと云うと貧相な彼はどう見ても同じ歳には思えなかった。唯一、ダンディーに感じられるのは見事なロマンスグレーの髪ぐらいだろうか。
 同年と判っても僕は彼に敬語を使い続けている。伊達氏の大学助教授という肩書きに敬意を表したのだ。そのせいか彼も敬語で応戦する。専ら野球の話ししかしないのだが、端から聴くと随分と堅っくるしいスポーツ談義に違いない。しかし、野球の話しからどうしてジョギングをしようということになったのかは思い出せない。
 もう、止めてしまおうかと毎週思うのだが、誘ったのは僕だから止めるわけにもいかない。週にたった一回ぐらいのジョギングがこれ程、辛道くなるとは思わなかった。この次は白状して撤退を申し出ようと思うのだが、彼の笑顔を見ると言い出せなくなってしまう。お調子者は一生治らないようだ。
 扉を開けると、いつもより暖かな風が流れていた。
 「おはようございます。倉橋さん、今日はいい陽気になりましたよ」
 彼の元気そうな皺くちゃの笑顔が示す通り、道には春の陽射しが降り注いでいる。お互いに暖かくなると体も楽である。引っ越して来てから、もうすぐ半年が経とうとしていた。初めて迎える武蔵野での春である。
 「いや、お待たせしちゃってすいません。お手柔らかに。もう伊達さんのペースにはついていけませんので」
 僕も謙虚になったものだ。若い頃にスポーツは結構やってきて、幸いなことに大病もなく、体の衰えをさして気にしてもいなかった僕は全く運動に縁がなく、胃潰瘍の手術をしたという彼を甘く見ていたのだ。だが、一緒に走り出して二ヶ月もしないうちに後を追うのが精一杯になっていた。きっと、今の彼は僕がいなかったら、もっと早くコースを回れるだろう。いつの間にか僕は足手まといの存在になりつつあるのだ。初めのうち感じていた悔しさも何処吹く風である。
 「倉橋さんも煙草をお止めになってはどうです。大分楽ですよ」
 「はあ、そうですね。やっぱり、差がでますなぁ」
 「それじゃ、参りましょうか。今日は川沿いの公園コースを行きませんか」
 「野川公園ですね。いいですね。僕も偶に散歩しますよ。何か咲いているかも知れませんね」
 「ええ、桜には少し早いですけど。では」
 僕は伊達氏の後に従った。今日は武蔵野公園から野川公園を抜ける緑の豊富なコースのようだ。秋や冬には寒々し過ぎる光景だが、春から夏にかけてのコースとしては最適かも知れない。二つの公園は隣接した都立の公園でどの駅からも離れているせいか、樹木の美しい公園の割に休日でも人は殆どいない。何よりもこの公園があることが引っ越してきて一番嬉しかったことである。しかし、僕の走り始めたばかりの足は異様に重かった。
 「あ、しまった」
 「どうか、しましたか?」
 「いえ、準備運動をするのを忘れてました」
 「いや、それはよくない。何処かで解しますか」
 「此の辺りで立ち止まると言うわけにもいきませんので。出来ればいつもよりゆっくりとお願いします」
 また、うっかりしてしまった。妻に念を押されていたのに、清々しい春の訪れに気を取られていた。そう、気を取られていたと言うことにしておこう。決して惚けじゃないぞ。
 「それでは、公園まで歩きましょうか」
 待ってました。最良の選択、天使の声である。朝の閑静な住宅地も捨てたものではない。公園に至る道に繋がる新興住宅区域に入る。それにしても敷地の面積も建物の豪華さも我が家とは雲泥の差がある。
 「いや、色とりどりの住宅ばかりですな」
 「そうですね。私の家も土地だけは広いのですが、旧家ですので味気ないのが残念です」
 「いやいや、伊達さんの家は立派なお屋敷ですよ」
 若い時に事業に成功していれば、道の両端に並ぶ家のひとつぐらいは買えていただろう。二世帯、いや、三世帯住宅も夢でなかったかも知れない。娘達も手許に置いて老後の面倒を看て貰えたかも知れなかった。金に物を言わせるというのはそういう時のために言うんだな。あの当時はお姉ちゃんに金に物を言わせ過ぎてしまっていたのだ。結局、微々たる財産も残すことなく、五十を過ぎてから奇跡の再就職先を見つけて毎日へいこらと働いている。今の家はオフクロが亡くなった時に残っていた土地を売って、古びた一軒家を買い取ったもので自分の実力なんかはこれっぽっちも関与していない。不必要な見栄ばかりを張って、甲斐性のないまま生きてきてしまった。そういえば、大阪の美和ちゃんはどうしているだろうか。今頃はもう四十を過ぎた小母さんになっているのだろう。そう思うと損した気分も多少は和らぐ。
 「さぁ、もうすぐ公園の入口です。そろそろ走りましょうか。どうです」
 今日は勘弁して下さいという訳にはいかないよなぁ。彼は走りたくてうずうずしているようだ。
 伊達氏が一代で築いたという家は本当に大きな屋敷だった。彼の家にだけは家族を連れて遊びに行くわけにはいかないな。確か家政婦さんが二人ぐらい居た筈だった。そんなのを見られたら、母ちゃんに何を言われるか分かったもんじゃない。同年にして家も走りも随分と水を開けられてしまったものだ。事業などというのは人生最大の博打なのである。地道に働いていたら管理職くらいにはなっていただろうに。
 「しかし、伊達さん。速くなられましたよね。とても週に一回の走りとは思えませんよ」
   「い、いえ。つい先日コンピューター付のウォーキング・マシンを買いましてね。自宅でも偶にトレーニングしてますので・・」
 「えっ、あの何十万もするやつですか?」
 「いやいや、そこまでは・・」
 「ああ、それでですかぁ」
 「ええ、多分それででしょう」
 坂を下って公園に入る。陽気のせいもあって汗は玉のようにこぼれ落ち始めてた。まだまだ、道のりの半分も消化していない。春には桜を満喫できる武蔵野公園に近づく。此処からは野川に平行した細い沿道を走る。唱歌「春の小川」を連想させるサラサラと緩やかに流れる浅く綺麗な川である。
 伊達氏の姿がすっと沿道から消える。僕も遅れながら彼に続いて垣根を右に曲がった。




【NEXT】