《閉鎖花イオン》 


 イオンが逝って二十年目の春が訪れた。
 私は朽ちかけた木製のベンチから、柔らかく頼りない土に杖を立て、ゆっくりと重い腰を持ち上げた。
 暖かな緑風が身体を包んでくれる昼下がり、内側から吹き上げてくる残酷なる希求を拒む術はない。
 呪縛の心は解かれることなく、紫色に染まった野辺へ足を踏み出そうとする。目的の地までの遠き彷徨。硬直して曲がらない膝が一つの歩みにも苦痛を与える。色を失った白髪の如くに薄れゆく記憶は、家路への帰途を忘却させることもある。それでも、イオンのことは一度も忘れたことはない。
 私の中のイオンは美しい少女の姿のままである。私は未だに彼女を愛しているし、命を奪ってしまったことの後悔に苛まされている。
 イオンの姿を思い出すと私の苦悩は深くなる。主体を失ったイオンはどこにいるのだろうか。私はこの年齢になっても、自分を感じて生きている。自分の存在が無になるということを想像することはできない。
 赤い花を赤いと感じ、呼吸を繰り返し、掌を拡げては折り畳む。感触がある。私はこの地に生きているのだ。生きている空しさも、悩むことも与えられた縁なのである。
 私はイオンにあっただろう縁を途絶えさせてしまったのだ。一度絶たれた魂の破片はもう実を結び直すことはない。私はそれを考えては、止めどなくこの陽溜まりの中で涙を流してしまう。
 今、イオンと翔った草原にあるものは、遠い記憶と静寂だけである。永劫の別離から二十年間、悲しみの《つぼみ》はここに残ったままである。
 そして、変わることのない景色が、私を今日も無情の旅に誘う。それは辛く、いつ果てるとも知れない。
 サヤサヤと温もりのある風が、草の上を渡っていく。
 イオンが走っている。嗚呼、あの時、私達は間違いなく自由だったのだ。草と花と陽射しが私達を包み、何ものにも束縛されることなく無邪気に戯れ、抱き合い、心を確かめあった。優しい笑顔が近付いてくる。彼女が語りかけることはなかった。そう、私達は言葉を交さなくとも分かり合えていた。
 ああ、今日も私は回想の波に溺れ、紫燭の殉教者となってさまようのだ。

 黄昏時、私は初めてイオンを連れ出して、野辺を散策した。草に覆われた広場で私達は子供達と出会った。子供達は長く繋ぎ合わせた輪ゴムを回して、その中を跳んでいた。
 ひとつ、ふたつ、みっつ・・・。
 イオンといる時の私は年齢を忘れた。気持ちが童心に戻ると、子供達の後に並んだ。壮年になった私は数回跳んだだけで、足にゴムをひっかけてしまう。すぐに息を切らせる老体を子供達が笑う。悪意のない無邪気な笑顔。私はこんなはずでは・・と、照れ隠しに白くなり始めた顎髭を撫でた。すると、イオンはいつの間にそんなことを覚えたのだろう。少女と一緒に縄跳びの中に入ると、上手に何度も跳んで見せた。軽やかに舞うその肢体は命に満ち溢れていた。
 ななつ、やっつ、ここのつ・・・。
 少女達も負けじと跳び続けるが、イオンの見事な跳躍に根負けして、輪の中から抜け出した。子供達の瞳は期待に潤んでいる。イオンは跳び続けた。子供達の声が大きくなる。
 じゅうご、じゅうろく・・・。
 私は意外にも器用な彼女の才能に驚かされた。輪の回転が速くなっても、イオンは健気に、夢中になって跳躍を続ける。男の子顔負けの快活な姿に、私の頬は弛んだ。
 到頭、イオンもゴムを絡ませ、子供達から深い溜息が溢れた。みんな、イオンの周りに集まって拍手喝采となる。
 イオン、君はスターだ。輝いている。
 彼女は一遍に人気者になった。そして、遊び疲れたイオンが甘えるように私の胸に飛び込んで来た瞬間、私の心はこれまでにない至福に包まれた。子供達が名残惜しそうに「またね。今度は鬼ごっこしようね」と声をかける。私は彼女を抱き、鼻高々な気持ちで、子供達の遊ぶ広場を後にした。

 イオンと暮らし始めて三度目の春。蒼穹の空の下、彼女はすっかり顔馴染みとなった子供達に溶け込んで、手繋ぎ鬼を楽しんだ。次々と鬼が増えても、敏速にターンを切って疾走する彼女を捕まえることは出来ない。結局、イオンだけが逃げのびたまま遊技は終了することになる。子供達は悔しがりながら、彼女に笑顔の賞賛を与え、その躰を撫でる。
 子供達と別れ、私達は二人だけの休息の時を過ごす。イオンは草原を駆けめぐった後、草叢に寝転び、咲き乱れたスミレの香りを心地良さそうに嗅いだ。香水の原料にも成るその匂いをイオンはきっと敏感に嗅ぎ分け、微妙に違う香りの個性を楽しんでいるのだろう。
 若く美しいイオンを見ていると私は全てを忘れてしまう。
 ちょっと物憂げに君は腕の上に顔を乗せ、黙って私を見つめる。やがて、歩み寄ってきて私の膝で接吻を求める。彼女の温もりが心を切なくさせる。こんな時がいつまでも続くことはない。でも、それでいいのだ。私がイオンを愛していること、その不条理こそが掛け替えのない幸せに私達を置いているのだから・・。
 だが、突然の不気味な咆哮に私達は硬直した。振り返ると、そこには大型犬のヘラがいた。ヘラは憎しみに満ちた牙を私達に向けていた。彼女は怯え、私の胸に飛び込んできた。
 「ヘラ!。やめるんだ!」
 ヘラは私が飼っている老犬である。イオンとの恋に夢中になっている私は、ヘラへの愛情をいつしか忘れてしまっていたのだ。
 ヘラは今日こそ目撃したわ!・・と、嫉妬の唸りをあげる。ジャラジャラと首輪からは断ち切った鎖を引きずり、にじり寄ってきた。狂気を帯びた眼差し。そこには自らの罪が映っていた。
 「ヘラ、GO BACK!」
 聞き分けの良かったヘラはもういない。巨体を起こし、鋭い爪をふるってきた。私はイオンの躰を後ろに放り投げ両腕で身を守ろうとした。しかし、ヘラの凶器は右腕深くに食い込んだ。その激烈な痛みに私の防衛本能は機能を失い、怒り狂い、更に牙を打ち込もうとするヘラに身を任せるしかなかった。そして、イオンがヘラに立ち向かっていく姿が映し出されるとすぐに、映像は悲しみの断片となって静かに暗転の幕を下した。
 静寂の中で目を覚ました。腕には生暖かい感触があった。
 ヘラは慈悲を乞うような後悔の眼差しで傷口を舐めていた。私は老犬に構わず辺りを見まわした。
 イオン!。
 イオン、何処だ!。
 私はイオンを探し求めた。そして彼女を見つけた刹那、艱禍の叫びが迸り出た。膝は砕け落ちた・・。
 イオンはスミレ畑の中に眠っていた。真っ白な服が朱く染まっている。私は横で項垂れているヘラの顔へ憎しみを叩きつけた。殴り続けてもヘラは声を発てなかった。
 行ってしまえ!。
 眼差しを細め、踵を返す。徐々に焦げ茶色の姿が遠くなってゆく。私は声を掛けなかった。たった一度だけ振り返ると、諦めをまとった重い足取りで遠去かっていった。もう彼女には帰る場所はなくなっている。私はヘラへの愛情が完全に無くなっていることを知った。ヘラもそれを知ったのだろう。私達の縁は断ち切られたのだ。
 イオンの体を抱き上げた。私を守ろうとしたイオン。辺り一面に咲き乱れていたスミレは無惨に押し潰され、秀麗な姿を失っている。そこに浮かび上がったイオンは薄紫のブーケを纏った妖精のようだった。亡骸の何という美しさか!。私はイオンを抱き起こし、その口元に接吻けた。
 イオン!。
 罪は徐々に深い嘆きとなって私を狂わせた。
 号泣した。嗚呼と言って・・。
 嗚呼と言って・・。
 嗚呼、嗚呼・・。
 愛する君はもういない。
 私はイオンの体を抱いて歩いた。途方もなく、何処までも何処までも・・。

 足許に咲き乱れた菫の中から、一番小さな花を手にとると、胸からは深い溜息が零れた。悲しい記憶だけが、私自信をも閉じこめている。
 そう、私は大きな誤りを犯していたのです。
 イオンを小犬の姿に変えたばかりに、イオンはその熱き命を落としたのです。天の支配者ゼウスは愛する少女イオを小牛の姿に変えてまで、妻の怒りから遠ざけたというのに、私はそれでも守りきることが出来なかった。
 いや、それは錯覚だろうか・・。
 私には初めから、純潔可憐な一人の少女、その姿しか思い浮かべることが出来ない。
 私の罪は深い。イオンは昇天してしまった。恰も咲いた花が実を結ばずに、蕾の形のまま種となってしまう閉鎖花のように。その《つぼみ》の中に深く愛を閉じ込めたまま・・・。
 そして私の閉じ込められた遠い記憶も、行き場所の無いまま彷徨うのだろう。やがて晩年を迎えるその時まで・・。来る日も、来る日も・・。

   イオンよ。君は変わらぬ愛で私を待っていてくれるだろうか。
 今も罪深い、この私を・・・。

一九九六年五月二十六日 作





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