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Forget-me-not-blue 2
「だから、切れたものは、出せないって、言ってるだろうが!」
久美は会社の仕入先の忘年会に招かれ、その二次会で『サンド・キャッスル』に連れてこられた。
一団は店の一番広いボックス席に陣取って盛り上がっていたが、事態は一変した。
「常連だからって、でかい顔するなよ。此処は俺の店だ。どうして、そんな無茶を言って、困らせるんだ!。他のものじゃ、どうしても駄目なのか!。この姉ちゃんは、このバーボンでいいと言ってるじゃないか!」
久美が飲んでいた種類が切れてしまった。それを、久美達を連れてきた水嶋が酔って喰ってかかっていた。
「水嶋さん、私何でも構いませんから。本当に何でも構わないんです」
久美は口論が始まったカウンターまで行って、横から宥めても水嶋は譲らなかった。久美がうっかり酔った勢いで「ないの〜」と、先程口走ってしまったのだ。
水嶋が当然の様に「買って来いよ」と言って、話しはややこしくなった。店は金曜で二十人程の客が詰め合って満席状態だった。痩せたジーパン姿の店主が一人で切り揉みしていた。広いボックス席は始めて来店した久美の関係者で大半を占められたまま、二時間以上も騒いでいた。
客を何組も返して、その度にマスターが頭を下げていたことを久美は酔いながらも気付いていた。水嶋はそれを知ってか知らずか、引き連れて来た面子を振りかざし、カウンターまで押し掛けてクレームを放ったのだった。
「オマエの所は酒を売ってるんだろうが、それが無いって言うのは、オマエの怠慢じゃないのか!。予備ぐらい置いとけよ」
「うちには在庫は各二本しか置いてない!。何本も置くスペースはない。それも飲み上げたんだ。そんなに此処で同じ酒を飲ませたいなら、オマエか、部下に買って来させろ!。それが、出来ないなら他の店で呑め!。馬鹿野郎」
身体の細さからは想像できないような大声で返した店主の言葉に、水嶋の顔が真っ赤になった。薄くなった頭から湯気が出そうな程だ。全ての客席が呆然と静まり返った。
「ば、馬鹿野郎だと、客に向かって馬鹿野郎とは何事だ!。俺がどれだけ此処に来てやってると思ってるんだ!」
カクテルを作っていた店主がマドラーを投げ捨ててカウンターから出てきた。今にも水嶋の胸を掴みかかろうとする勢いだった。
「店はオマエだけの為に、やってるんじゃない。俺はオマエのように思い上がった団塊の世代野郎は大嫌いだ。始めに『すいません』と謝っただろうが!。オマエは、もう来なくていい!。みんな連れて帰れ!」
ジーパン店主も一段と強硬な姿勢になって、絡みつく水嶋に応戦していた。 「来なくていいだと。帰れだと!。来なくて困るのはオマエじゃないのか。どれだけ客を連れて来てると思ってるんだ。後で泣きついて謝っても、俺は二度と来ないぞ!」
間に立った久美が男二人の前進を押さえる。
「ああ、結構だ。ボトルは持って帰れ!。さあ、みんな連れて帰ってくれ!。他の客が入れる」
首筋まで伸ばした髪を振り乱して、店主が怒声を発した。
久美にも甘えがあった。来店時に笑顔で迎えたマスターが率無く収めるものと思っていた。
水嶋のグループの男子数人が、店員の横柄な態度に耐まりかねて立ち上がろうした。それを見て隣のボックス席の若いグループの客が四、五人立ち上がった。店側の援軍もいるようだ。
「あんた達ちょっと騒ぎすぎなんじゃないの。貸し切りじゃないんだよ」
全身を黒革のライダー・スーツで身を包んだ一番背の高い健太が助け船を出す。
「なんだ。小僧、オマエとは話してない」 「小僧とは何だよ。うるせぇんだよ。とっと出てけよ。マスターが帰れって言ってるじゃねぇか」
「水嶋さん、帰りましょう。確かに私達、少し長く騒ぎ過ぎたわ。他で飲み直しましょう。ね」
久美は自分にも非があると思うと、いたたまれなくなった。店を早く出たかった。
再三の久美の説得に、水嶋も少し冷静になってきた、と言うより、これ以上久美の前で恥を晒したくないという気持ちが、働いたのだろう。
「帰る!。勘定だ」
男の声は怒りで震えている。睨み合っていた真司の目から視線を外し、背を向けた。真司がクールに背中に言葉を浴びせる。
「勘定はいらない。俺がかぶる。だが、もう二度と来ないでくれ」
水嶋がキッと目を吊り上げ振り向いた瞬間、久美が水嶋の手を強く引いて席へ戻す。若いグループが席を立ったまま、睨みを効かしているので、一行は呟々と罵詈雑言を吐きながらも、帰り支度を整えて出口に向かう。
「あんたには済まない」
店主がコートを羽織って去ろうとする久美に声を掛けた。
「ご免なさい。我侭言って・・」
「謝る必要なんかない!。全くひでぇ店になったもんだ」
最後に水嶋が捨て台詞を残して、久美達はサンド・キャッスルを出た。
久美が一人店に戻ったのは、それから二時間程してからだった。深夜の二時を廻っていた。一同は場を新宿に変えて、下がってしまったテンションをカラオケで埋め尽くそうとしていたが、久美だけはどうしても騒げない。人前も憚らず執拗になってきた水嶋の触手に酔いが醒めきってしまうと、気持ちは『サンド・キャッスル』の出来事に縛られていた。久美は水嶋がトイレに立ったのを幸いに、同期の六本木店の女性店長に会費を預けて席を立った。
久美はタクシーに乗り込むと自宅のある目白ではなく、原宿を告げた。年の瀬に凝りを残したくはない。久美はもう一度謝っておこうとサンド・キャッスルまで戻った。
若いグループがまだ飲んでいた。確かに、このメンバーの方が酒に飲まれず、和気藹々と飲んでいる。マスターも笑顔を浮かべ、一緒にボックスで話している。水嶋はいざ知らず、始めての久美達の騒ぎようは傍若無人に過ぎたかも知れない。
若いメンバーのボス的存在の健太が入って来た久美にギロリと一瞥を与えた。どうみても二十代の前半、甘いマスクをしているが、瞳を鋭く突き刺してくる。
「忘れものはなかったけど」
店主の笑顔も欠き消え、不審そうに言葉を投げる。他人から怪訝な顔をされたことは余りない。緊張と恥ずかしさがないまざった感情が久美を包む。兎に角謝罪だけはして帰ろうと少し震えがちの唇を開く。
「いえ、お詫びを言いたくて・・」
頭を下げてから、店主と視線を合わせた。先程の鬼のように恐い形相はかき消えている。
「もう、いいんですよ。僕も言い過ぎました。すいません」
悪態のひとつも含めず、店主もきっぱりと謝った。言葉が『俺』から、『僕』になっている。久美は立ち尽くしたまま、深く胸を撫でおろした。
「本当にご免なさい。ちょっと、いい気になって飲み過ぎちゃって」
「僕もですよ。でも、水嶋はもう店には入れませんよ。それだけは、変わりませんから・・」
「少し、飲ませてもらえます?。酔いが醒めちゃって」
「いいですよ。まだ営業時間中ですから。カウンターでいいですか」
店主はゆっくり立ち上がると、空席のカウンターの中に入った。久美は五脚しかない席の中央にある椅子に腰掛け、所々に視線を送る。右端には片付けれていないタンブラーや、アイスペールが乱雑に放置されている。
「すいませんね。飲む方に忙しくなってしまって。何飲みます?」
「ジン・ライムを。ジンを強めで・・」
「酒強んですね。さっきはグランダッド空けちゃいましたよ。殆ど一人で・・」
「あの、さっきの料金、私払いますから。お幾らですか?」
「貴女が払う必要はないでしょう。それに本当に貰う気はないんですよ。貰ったら、また奴を飲ませる切っ掛けになってしまう」
「でも、結構なってるでしょ?。ボトルも全部で三本は出てるし、料理も・・」
バッグから財布を取り出そうとするのを見ていた店主が、両手を前に拡げて制した。
「いや、うちは安いから、四万以下ですよ。いいんです、伝票も破り捨てたし」
「でも・・」
「いえ、やめて下さい。じゃ、あなた、お名前何でしたっけ?。適に飲みにきて下さい。きちっと、謝りに来てくれたし。それでいいです」
「マスターは女に甘いよなぁ」
ボックス席の革ジャンが笑いを含んだ声を上げた。
「健太、聞き耳立ててるんじゃないよ。甘いのは一緒じゃないか」
「お・俺はそんなことないすっよ。でも、よかったよなぁ。あのオヤジ、もう来ないなら。会うと下らない説教ばっか垂れっからな。俺も自分の金で飲んでんだから、いちいち詰まらないこと言われたくないもんな」
茶髪でジャニーズ系、ルックスの整った健太の仕事はトビ職で筋骨は顔に反して逞しい。若いが縦社会にいるせいか、本質的なものか、どの客とも距離感をわきまえて飲む。言葉使いや格好と裏腹に人に迷惑を掛けたことはない。若手常連グループのボス的存在でみんなに慕われている。
「本当にさっきはご免なさい。みんな楽しんでるところ・・」
久美が健太達にも頭を下げた。
「いえ、そんなキッチリ謝れちゃうと、何にも言えないっす」
健太は髪をかき上げて身体を仲間の方に戻し、調子を取り戻そうと皆に酒を勧め直す。若い男女が入り交じったボックスは程なく歓談の場に還った。
久美は恨めしそうに、若者達をながめてから、カウンターの正面に身体を返す。楽しいことは余りない。大人になってからは、逃げられないことの方が多いと、つくづく思う。仕事を離れた時の水嶋の行為に、いつまで耐えなくてはいけないのかと思うと気が滅入る。一緒だとあの手この手口で口説いてくる。久美は鮮明になってくる水嶋の顔を振り払うように首を振った。 「私、久美といいます。これからは時々遊びに来ます。原宿のお店なんて初めて」
「ええ、美人は大歓迎ですから。但し、一言だけ言わせてもらうと、あなたもあんなのと付き合わない方がいい。僕も甘えさせ過ぎた」 「仕入先なんですけど、あんまり邪気に出来ないんです。色々融通効かせてもらっていて・・。でも、水嶋部長、此処に長く飲みに来てたんでしょう?」
「奴は、僕の友人が前に勤めていた仕事先の上司なんです。もう、いいでしょう。友達もその職場にいる訳じゃないから。これまでも横柄で場を壊すことも時々あったんですよ。丁度よかった。切っ掛けがないとこっちも無碍には出来なかったし・・。もう、この話しは止めましょう。今まで我慢してたのが、爆発できてスッキリですよ」
久美はジン・ライムを一気に飲んだ。
「お代わり下さい。このお店は永いんですか?」
「いえ、まだ二年です」
「落ち着いた素敵なお店ですよね。お客さんは、若い方が多いんですか?」
「そうしたいですね。オヤジ共は金を払えばどんな我侭も買えると思っているのか、横柄に振る舞う奴が多くて、反面、若者を心酔させるだけの言葉も持っちゃいない。最近の若者は誘ってもついて来ないのがけしからんなんて、言うけど、魅力のない大人に誰が着いていくもんですか・・」
「ええ・・」
「はは。と、言っても僕もいい年だけど・・。年取ると自分を見ることを忘れがちになるのかも知れませんね」
「そうねぇ、大人も改めなくちゃけないことが沢山ありそう」
「格好よく飲んでる大人なんて随分見ちゃいない。その点若い奴等は世間が思っている程すれちゃいない。まだまだ、未来を託せますよ」
「若い人、好きだな私も。まだ、キャンバスが白くて、素敵な大人に成って欲しいですよね。マスターは、お幾つ何ですか」
「マスターなんて柄じゃないんですよ。さっきの為体見てて、子供だってバレちゃったでしょ?。真司でいいです。これでも、三十六です。イヤだな。僕ももっと、大人にならなくちゃ」
「あ〜あ。ホント、私も酔って、うっかり。しっかりしなくちゃ」
久美も真司もお互いに拘りが溶けたのが分かると自嘲の笑いを零した。和解が出来た安堵感もあり、久美は結局閉店後も残って、朝まで真司と差しで飲んでしまった。
初めて真司の店に行ったその日に酔い潰れてボックス席のソファーで眠ってしまった。起きてからお互いにトイレに何度も駆け込み、漸く外で珈琲を飲めるようになったのは翌日の昼近くになってからだった。日の射し込む喫茶店で二日酔いのお互いのボロボロの顔を見ながら大笑いした。前夜、二人とも似ていると言われる映画俳優の話しに熱中してしまい深酒してしまったのだ。
真司の子供っぽい印象が深く胸に刻まれた。初対面から派手に恥を晒してしまったせいか、久美にとって真司は気を遣う必要のない異性になっていた。久美は水嶋に代わって、サンド・キャッスルの常連になった。久美が常連になったことを耳にした水嶋は、いつしか久美からも遠離り、お互いに好都合の結末を迎えていた。
週に数回、自然に足が運ぶようになる頃には、健太達や他の常連客も気軽な話し相手として久美を受け入れてくれた。真司も得意のジョークで久美が連れていく女友達も楽しませた。女性が多い時の真司は特にご機嫌だ。あれ以来、真司が怒ったのを見たことは一度もない。普段は若々しく面白いマスターだった。でも、勇ましい一面があることも密かに知っている。それもいつか真司を頼もしいと見れる材料に変わっている。
それから、半年もすると店を離れてデートをする機会が自然増えた。当たり触りのない真司と遊ぶことで、随分と仕事上の憂さを晴らすことが出来た。でも、真司は友人にまで昇格した久美を、突然粗末に扱う時がある。
急に口を閉ざし、しかめ面を決め込んだ時の真司は何を考えているのだろう。
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