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Forget-me-not-blue 1
久美は洗い髪をバスタオルに包みながら、ベッドの上に腰掛けた。掌で長い髪に帯びた水分を念入りに布地に染み込ませてゆく。
疲れた身体を一日横たえて、目を覚ますとすっかり夜の帳が下りていた。何もしなかった休日、そんな日の夜は、余計に気持ちをメロウにさせることがある。疲れは抜けていたが、一日を不意にした無情感が襲ってくる。今夜は危ないと久美は思う。
テレビのスイッチを入れる。見たい番組もない。暫く呆然と画面を見つめ、スイッチを切った。
CDラックに手を伸ばす。買っておいたCDのシュリンクを剥ぎ取とろうとする。いつまで経っても剥がし目が見つからない。孤独に弄ばれているようで憂鬱が深くなる。溜息を吐いてCDを布団の上に放り投げた。借りたままのビデオを見る気分にもなれない。恋愛映画が感動を与えてくれるのは、気持ちが落ち着いている時だけと知っている。
セーラムに火を灯してから、久美はベランダに出て煙を吸い込んだ。月は出ていない。繁華街のネオンだけがいつもと変わらず、賑やかな明滅を繰り返している。暫くぶりの煙草が苦い。
「ニュイ・ブランシュ・・」
以前、誰かに教わった言葉。フランス語で『眠れぬ夜』のことを指すらしい。
どうやら今夜、久美の心はニュイ・ブランシュに包まれてしまったようだ。
もう少し、都会の夜空を眺めていたいが、クリスマス間近の外気は冷えている。まだ、乾き切っていない髪から、体温が失われてゆく。煙草を一本吹い終えて、暖房の効いた室内に戻っても、眠気が訪れる気配はない。
見つめた白いコンクリートの壁には通り過ぎた男達の影が浮かび始めていた。
若さに惹かれた夫、只管支えてくれた男、下心無く優しかった男、楽天家でいい加減な男、強がりなのによく甘えた男、無条件に惚れてくれた男・・、そして・・。
久美は首を振る。でも、まだ人を本気で愛するのは怖い。好きでいてもなんとなく自分から距離を取ってしまう。それは、胸の中に残っている痕が、まだ癒やされていないせいなのかも知れない。
新しい人との出会い、楽しく騒げる夜、面倒を看れる友達、少しのロマンス、ささやかな日常が今の久美には手頃である。それでいい、そう久美は自分に言い聞かせてしまいたい。
でも本当に言い聞かせて、いいのだろうか。一人で眠る夜はすっかり永くなってしまっている。そんな日々は面倒臭いこともなく自由ではあるけれど、幸せにもなれなければ、不幸にもならない。ただ、どう仕様もなく遣る瀬無い虚無感が久美を襲いに来る夜が増えるだけだ。 今夜もそんな夜に違いない。時間は回想と回顧に追い回されて、いつの間にか午前零時を廻ろうとしている。目を配りながら部屋のオブジェ達と相談してみるが、睡魔を呼び込んでくれる材料は見当たらない。あれだけ眠れば眠くなるわけもない。常備薬のワインも切れている。CDよりもワインを買っておくべきだったと思うと、疲れはもっと深くなる。
忙しい割に整然と片付いている部屋に空虚だけが漂っている。全てを諦めてベッドに横たわろうとして、ふと、枕元のサイドボードにある電話に目が止まった。 「わたしって自分勝手だわ」
思い浮かぶのは、ただひとつ。原宿のバー『サンド・キャッスル』のナンバーだった。『砂の城』。どうして、そんな淋しい名前を付けたのだろう?。理由を訊いたことはなかった。
店は明け方までやっている。まだまだ営業時間中で気が引ける。でも、夏を過ぎてマスターの真司は閑だと嘆いていたので、少しは相手をしてもらえるかも知れない。暮れの忙しさに立ち寄ることも、電話をすることも疎かになっていた。久し振りに声が聞きたい。指は考えるより早くボタンを押していた。
ル・ル・ル・ル・・と長く呼び出し音がなる。出ない。忙しいのか。受話器を戻そうとした。
「・・はい、サンド・キャッスルです」
何となく眠そうな、低い声が送話口から届いた。
「もしもし、久美です」
「オオ、久し振りの電話だね」
「元気ぃ?。今忙しいの?」
「ヒマヒマ、11時から誰も来ず。平日は駄目だね。今、スヌーピーの枕でチャーリーの夢でも見ようかと思ってたところ」
「枕に涎垂らさないでね」
「うん、でも、涙零すかもね。話し相手もいないと淋しくて仕様がないよ。ところで、どうした?。もう、真夜中過ぎたぞ。まだ、起きてたのか?」
「うん、ホワイト・ナイト。フランス語だと、ニュイ・ブランシュでしょ。教えてくれたの、真ちゃんじゃ、なかったっけ?」
「へえ、随分前だよね。よく覚えてるね。砂の城にはピッタリの夜だけどね。女性の夜更かしは、お肌の敵じゃないの?。この間、あげたラベンダーのハーブをさ、鼻の穴に詰めて寝ると、ぐっすり眠れるかもよ。まだ、残ってるだろう?」
「ふふ。もう、みんな鼻水だらけになって、捨てちゃった。また頂戴」
「おや、ずっと不眠症かい?。二十五を過ぎると肌が曲がるだけだけど、三十を過ぎると『永遠に美しく』の、魔女みたいに肌に皹が入って、そのうち粉々になっちゃうって知ってた?」
「まあ、どうしようねえ。お酒飲んで水分補給しとかなくちゃ」
「そりゃ、いい考えだ。最近、補給してないんだろ?。適には、こっちにも補給しに来なくちゃ駄目だよ」
「うん、行こう行こうって、思ってるんだけど、お店忙しくてバタンキューなの」
「相変わらず矛盾してるな。一体どっちなんだい。ニュイ・ブランシュで眠れない日々なの?。バタンキュで昏睡しちゃう日々なの?」
「うーん、どっちも」
「こらこら、四十男をからかうんじゃないよ」
「そうだね、真ちゃん、この前四十になったんだよねぇ。もうすぐ、粉々じゃん」
「僕は大丈夫。毎日、浴びる程飲んでるから」
飲んでいない時の真司はいつも疲労を纏って眠たそうだ。真司は店が暇な時に限って飲み過ぎてベロベロに酔う、そんな時のジョークやユーモラスなアクションは滅茶苦茶に面白い。久美は真司のそんな姿を思い出して少し明るい気分になった。
「でも、今夜は飲んでないでしょ?。眠たそう」
「いや。久美の電話で、『ギンギラキンにさりげなく』、醒めたね」
「やっぱり、酔ってないから親父ギャグね。その程度じゃ落第」
「『ごめんよ、涙』。悩み事を隠すの〜案外・・」
「歌わなくていいのよ〜」
「冷たいね。ま、いっか」
「ちょっと、新しい歌になったわね」
「今のはジョークじゃないよ。ま、いっか。ところで、どうした?。本当に悩み事なら聞くけど・・」
悩み事がないわけではない。でも、真司にはこれまで愚痴を散々ぶつけてきている。久し振りの電話で、行き成り甘えては申し訳ないように思う。
「ううん。暇つぶし・・」
「やれやれ、はっきり言うね。代償は高いよ」
「なぁに?」
「オヤジと一緒に映画を見る刑」
「うん。行こう、行こう。何見に行く?」
「そうだな。『シャル・ウイ・セックス』?」
「O〜K〜よ〜」
「そ、そんな、あっさり。どぎまぎ」
「行く、行く〜」
「まだ、してないのに?」
「じゃなくって、何時、行くぅ?」
「何時って、久美こそ、何時、時間空くんだい?」
「う〜んと、う〜んと・・」
「今度は踏ん張ってるのか?」
「もう、古いネタばっかり。手帳の暦見てるの!」
「じゃ、二十五日。僕はオフだから。やったぁ〜。淋しいクリスマスとお別れだ」
「えぇー。勝手。久美ちゃん、お仕事」
「じゃ、明日。明日もオフだから」
「凄い。勝手」
「グ〜、ZZZ」
「寝ちゃ駄目。スヌーピーの枕取るわよ。じゃ、二十八日は?。私、その日からオフなの」
「凄い勝手。僕、仕事。書き入れ時。でも、デートしたいから、香織にバイト頼むか?」
「やった。そう来なくっちゃ。何時?」
「今、新聞調べる・・」
こんな予定ではなかった。でも、真司との久し振りのデートを久美は内心望んでいた。あの日以来、店以外で真司と会うことがなくなっていた。真司が誘ってくれたことが素直に嬉しかった。待ち合わせ時間を決め、それから二十分程取り留めもなく話しをしてから受話器を置いた。真司のいつも変わらない対応には頭が下がる。やはり、そろそろ氷の鎧を溶かさなければいけないのかも知れない。
久美はやっとCDを聞く気になって、デッキのスイッチを入れた。取れなかったシュリンクが簡単に剥がれた。
年末の渋谷の街は若者達に占領されている。駅前の交番付近には待ち合わせの男女が携帯電話を覗き込みながら相手を待っている。空は筋雲すらない蒼穹。穏やかに陽射しが降り注いでいる。真司も若者に倣ってそろそろ電話を掛けようか思案していた。
久美はいつものように三十分以上遅れて待ち合わせ場所にやって来た。真司の姿を見つけても、若い娘のように駆け寄ってくることはしない。
土龍色(トープ)のセーターの上に同じ色の厚手のジャケット、下は煉瓦色のロングスカートにヒールの高いブーツを履いている。全身をブラウン系で統一している。百六十センチある久美は顔が小さすぎるのか、細すぎるのか、あまり背が高くは見えない。シックな装いはこれまで通りだ。変わってたのは、長い髪をライトブラウンに染めて、流行りの細い眉を描いている。アイシャドウとルージュは薄くなって、それがかえって大人の雰囲気を醸し出している。それでも、既に三十四歳になったとは思えないほど若々しく見える。 「やあ、寒いなぁ」
真司は遅刻を咎める風もなく微笑んだ。それもいつものことだった。
「ごめんね。大丈夫、真ちゃん?。着てるジーパンと同じぐらい青い顔。原宿のブラッド・ピッドは昼間見ると随分悪い顔色ねぇ」
「昨日、混んで飲み過ぎた。なんだ、久美こそ、今起きたような腫れぼったい目して、右眉の描きも下がってるし、和製キッドマンの名が廃るぞ」
「行き成り来るかぁ〜。後で直すわよ〜。ふん!だもの」
「ジャブには、アッパーで応戦さ。ほら、CD」
真司が差し出したのは、久美が欲しがっていた洋楽のCDアルバムだ。
「まぁ、買ってくれたの。嬉しい」
「遅ればせながら、クリスマスのプレゼントさ」
久美は自分の胸にCDを押しつけた。真司のやり方は、いつもそうだ。散々、落として於いて喜ばせる。久美は繋いだ手を大きく振りながら歩く。二人ともいい大人なのに、会うときはお互いの年齢を忘れてしまう。
そんな久美も仕事上では、一流ブランド会社の代官山支店の店長として多忙な日々を送っている。この三年間は、仕事に捧げた年月だった。一支店の店長としての業務だけでなく、海外の仕入れから人事までも会社の幹部候補として携わってきた。久美にとって真司は仕事以外で甘えられる数少ないボーイ・フレンドである。真司はどんな愚痴でも聞いてくれる。真司が小さな店のマスターという立場で、久美はお客という立場だからだろうか。サンド・キャッスルに通い始めてから、もう四年ぐらいになる。知り合ってからは、もっと月日が経っているように感じる。久美にとって、真司は多忙な生活の中に潤いを与えてくれるオアシスだ。子供っぽかったり、妙に大人だったり、お互い結構似たところもある。
二人は手を繋ぎ東急文化会館の映画館の前まで来た。
「凄い行列!」
「ご心配無く」
中世の貴公子には決して見えない無精髭の真司が、深々と一礼してみせると、チケット売場を素通りして久美の手を引いて館内へと導いていく。
「ほらね。簡単だろ。ま、一緒に並ぶっていうのもいいのかも知れないけど、老夫婦が立って見るんじゃ、周りに気をもませるからね」
「やるぅ」
真司は前もって指定券を用意していた。相変わらず、抜け目ない。真司が女性客からもてる理由は率の無いフォローにありそうだ。
二人は会話も交わさずに、休みなく繰り広げられるアクション・シーンを堪能する。膝に乗せられた真司の手を、久美は強く握っていた。
映画舘を出ると真司が無口になっていた。いつもなら、映画の感想を交換し合うのだが、真司は乗ってこない。映画は十分に楽しめたエンターテイメント作品だったと思う。
「どうしたの?」
「いや、何でも」
「でも、怖い顔してる。お茶飲んで休む?」
「いや、いい」
久美は急に憮然と成った原因がよくわからずに困惑した。
「真ちゃん、久美にも何かプレゼントさせて。何か欲しいものある?」
「・・君」
「真司さん、」
《貴方の優しさに対して、今日は敬意を表するつもりよ・・》
照れくささにつかえて言葉が出ないうちに真司が言う。
「冗談だよ。飲みに行こう。飲みに。何か、旨いもんでも食いながら」
真司は明治通りで手を上げてタクシーをつかまえた。久美に選択権を与える素振りもなく真司はドライバーに四谷を告げる。
久美が連れて行かれたのは、真司の大学時代の友人がやっているという新道通りの路地裏にあるインド料理屋だった。
『曼陀羅』と記された木の看板だけがぶっきらぼうにぶら下がっている。外からだと何の店だか見当もつかない。古めかしい木戸を開けると中は薄暗く、インドのガザル風のナジマの曲が流れていた。独特の香辛料の匂いがする。丸いテーブルに着くとターバンのような帽子をかぶった男が親しげに手を挙げてやってきた。
「おお、シンか。久し振りだな」
「紹介しておくよ。俺の親友の剣雅刀(つるぎ・まさと)、役者みたいな名前だろう。本当に役者を目指してたことがあるんだ。でも、本名なんだ。なぁ、雅刀。それで、こちらが久美ちゃん。うちの店で一番の美人客」
「あれ、この前は礼子のこと言ってたのに。始めまして、久美です」
「マサトです。宜しく。久美さんの話しは、よくシンから、聞いてますよ。本当に綺麗な人だなぁ。羨ましいよ、オマエが。俺のカミさんと交換してくれないか」
「莫迦、久美ちゃんは俺のカミさんじゃないよ。お客さんだよ、お客さん。適にはオマエも飲み来いよ。俺が来るばかりじゃないか」
先程から真司の笑顔を見てない上に、お客さんを誇張されると、不安な気持ちにさせられる。
「いいじゃないか。こんな美人がお客さんなら、俺んとこは無愛想なサラリーマンの親父と大食漢のOLばかりだよ。俺もバーにすっかな」
「莫迦。向こうのお客睨んでるぞ」
「い・いけねぇ!」
体格のいい雅刀が声を掠れさせて後ろの奥の席を振り返った。
「嘘だよ。トンカチ。アドリブが利かないから役者も駄目になるんだよ。もっと店に気を入れろよ。何だったら、修行に暫く使ってやるぜ。さあ、料理を頼むよ。料理を」
「何だい。今日は荒れてるな。わかったよ。ちょっと、待ってろよ。順番だから」 「それから、右奥の席、うるさいな、何とかしろよ。此処は騒ぐような店じゃないだろが」 「あのぐらい勘弁しろよ。もっと騒がしくなったら、注意するから・・。参ったな」 「俺が怒鳴り込む前に頼むぞ」
剣は頭の帽子をとって、短髪を掻きながらキッチンへ消える。暫く、沈黙が続いた。久美は言葉が見つからない。此処にいる真司は明らかに苛々している。
久美は始めて真司の店に行った時のことを思い出す。四年前の暮れ、あの時、真司は今以上に棘立っていた。
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