◆ゴールデン街の陽は暮れて◆

−第二話 《おまる》−


 
幼稚園も卒業し、小学校には上がっていたでしょう。あれは確か昭和四十年代中頃だったと思います。僕が通っていた新宿区立四ッ谷第五小学校は十一月の酉の市で知られている花園神社が隣で、明治通り沿いにありました。歴史は古く、その頃で創立九十年以上ではなかったかと思います。その後花園小学校と改名されましたが、今はもう廃校となってしまい、撤去自転車の置き場になっています。時の流れとは恐ろしく早いものです。自分が不惑を疾うに過ぎたとは今でも思えません。中身はあの頃と余り変わりないような・・。

四ッ谷第五小学校に入学した当時には、校舎は既に鉄筋で、グラウンドも舗装されていたので、こけると膝頭がずるむけてかなり痛かったのです。それでも、春には桜が咲いて、つばめが校舎に巣を作る都会のど真ん中にある学校のわりには、ほのぼのとした素敵な学校でした。実はその当時のままの光景は今でも花園神社から窺うことが出来ます。やがて、取り壊されてしまうので学校フェチの方は是非今のうちに見ておかれるといい記念になるでしょう。

春が終わると、当時は本当に豪雨の梅雨がやって来ました。花園神社には本当に大きな池が出来ました。梅雨の中休みには、雨の池に正体不明の虫が沢山発生し、虫好きだった僕は独りその大きくて蠍のような奇妙な虫達と一日戯れ、それなりに楽しい雨期を過ごしたりしたのでした。今考えるとあれは蜻蛉の幼虫だったような気がします。

梅雨明け直前には地面をも揺るがす神鳴りがドンドン落ち、結構新宿でも人が落雷にやられて、人浚いのおっさんは罰を与えられ雷(いかずち)に串刺しにされたらしいと噂になったものです。本当にそんな人浚いが身近にいた記憶はありません。親達がいつまでも遊び呆けて帰って来ない子供達に早く帰らないと人浚いに連れていかれちゃいますよ、と言っていたのでしょうねぇ、まあ、暢気な時代です。

夏には蝉が五月蝿いほど鳴き、雨なんか降る日は殆どなかったので、本当にプールが楽しみでした。でも、僕が低学年の頃はまだ男子は赤ふんどしだったので、泳いでいるうちに弛んで、水の中に置いてきぼりにしてしまうこともよくあり、その度に褌を取りに戻り、競泳なんかにはならなかったものです。

しかも、女の子達はその度に「きゃー!、内田君大きい素敵〜・」「大倉君は小さい、見えなぃ」なんて言うわけないよな。しかし悲鳴のような奇声を上げるので、本当に恥ずかしい思いをしました。ああ謂う性教育のやり方には僕は今でも反対です。

秋の夕焼け空も忘れることが出来ません。いわし雲は空一面を覆い、鱗に紅の陽が反射してそれは絵に描いたように美しい眺めでした。子供ながらに静かに雄大に渡ってゆく雲を見上げ、旅情を煽られて、当てもなく遠くまで行ったりしたものです。僕が東西南北には全く疎いのに、何処からでも帰れる帰趨本能を身に着けたのはそのせいです。

冬には必ず十センチは積もる大雪の日がありました。雪合戦や雪だるま作りに疲れては、ダルマ・ストーブの周りに集まって、囲い網に手袋を掛け、湯気が浮かんで乾いていくのを談笑しながら楽しんだものです。

特に日直の時には、ストーブにコークスを入れることが出来るので、一冬に何回当番をやれるかはかなりの話題になったりしたものでした。


そうして、都会の中でも十分に季節を楽しみ、ある時は詩人となり、ある時は冒険者として生きていた僕には、もっと僕の感性に磨きをかける日々があったのです。学校に通う僕は自由人である反面、辛い拘束された人生も送らなければならなかった悲哀の子供でもあったのです。

そうナす。悲哀とは「オマル」との生活だったのです。「オマル」との生活とは何でしょう?。それは夜は「オマル」と一緒にいなければ生きていけなかったということです。でも僕は「オマル」は嫌いだったのです。あんなに愛しい縫いぐるみのミミの次ぎに待っていた僕のお供は彼?との生活でした。彼の存在は大きかったのです。普段は三階の部屋の奥の方にじっとしているだけなのですが、どんなに共同生活を拒否しようとしても、彼は圧倒的な存在感で、僕を苦しめたのです。目も合わせたくなかったのですが、僕がもよおしてしまうと、彼は僕を完璧に誘惑するのでした。
そして、僕は切ない魅惑に屈して、白い尻を差し出してしまうのです。

ああ、なんという悲劇。

ああ、なんという刹那。

僕はどうして呪縛にはまってしまったのだろう。僕は悲しい・・。悲しいが僕は毎夜、彼にお尻を差し出し続けるのです。きゃー。どうもあの頃から腹具合は緩かったんだなぁ。

日本の高度成長期の裏にこんな辛い過去もあるのでした。父と母が経営していた飲み屋は儲かっていました。それは、店を一階だけに止めておくことも出来ないほどの繁盛で、遂に居住区だった二階も改装されて、店の一部になってしまったのです。そして僕等の住まいは天井の低い三階だけになってしまっていたのでした。でも、両親はいいのです。いつでもトイレに行けるのです。でも、二階が店になってしまったことによって、僕は二階に下りることも許されず・・。運呼をオマルにしなければならなかったのです。運呼をオマル。小学生にもなって、運呼をオマルにしている子が僕の他にいるのだろうか。辛いでっせ。それを思うと切ないでっせ。友達には言えるもんじゃないでっせ。しかも、初めはちゃんと捨ててくれていた中身もいつからか、溜まるようになるもんでして、何故って、そりゃ毎日換える方も嫌にもなりますわ。

ある日、滅多に人が来ることのない夜の部屋に江花が遊びに来ました。江花は若松町の豪邸から越境して第五小に通っていた級友です。学校での席も近く、僕が合気道をやることになった切っ掛けを作った道場仲間でもありました。彼は何処から見てもボンボンでした。と、言ってもお父さんを早くに亡くしたらしく、寂しかったのでしょう。お母さんは随分友達を泊めたり、泊めにやったりと気を遣っていました。勿論、物質的には何不自由なかったのではないかと思います。二人であれこれと遊んだ後に、彼が物心ついてからは決して見たことはない筈のオマルに好奇の目を向けたのです。

「あれ、何?」

もう好奇心を押さえられないという感じで彼が指を差して訊ねました。それは決して赤ちゃんがするような白鳥の首が付いたような代物ではなく、本当に丸く白い光沢を放った何やら危険な香りのする鉄製のオマルなのです。

「オマル」

「オマルって?」

「見る?」

真逆、いいよと言うと思っていた彼は変態だったのです。

「見る。見る」

僕はどうせ今日泊まる江花も場合によってはオマルにお尻を差し出さなければならなくなると思って、部屋の隅から重くなったオマルを彼の前まで運びました。

裸電球の明かりに怪しく光る物体が畳の上に置かれ、江花は不思議そうな、期待と不安がない混ざったような顔で暫くそれを見つめました。

「開けていい?」

「いいよ」

彼が蓋の頭に突き出た取っ手を掴み上げました。僕にとっても興奮の瞬間です。オマルが本当に僕にとって天使なのか、悪魔なのか、その存在が確かめられる瞬間になるのです。

「うわっつ、くせっ」

上品な御子からは聞いたこともないような汚い言葉が吐き出されました。でも、それは仕方のないことです。昨日から半分ほどに溜まった汚物はその言葉以上に汚い存在であることは間違いなかったのですから!。子供の頃はどうしてあんなに沢山出るんでしょうねぇ。

そんなに臭いかなと僕も覗き込みました。こ、こりゃ臭い!。

「な、凄いだろ?」

と、自分の物のように言う江花はやはり変態だったのです。彼は開けては覗き込み、開けては覗き込みしたのです。その度に彼は言葉にするのでした。

「くせっ」

でも、彼は変態でしたが、やっぱり紳士でした。余程おかしかったのでしょう。大爆笑し始めたのです。僕にも開けては見せ、開けては見せ、臭いねぇと言ってまた笑い転げるのでした。

彼は決して僕を傷つけたりするような態度は取りませんでした。彼は子供ながらに僕の生活を哀れむと同時に、境遇を晒け出した僕にこれまで以上の好感を持ってくれたようです。二人はオマル笑いに疲れて、匂いの残る部屋で深い眠りに就きました。

彼は学校であいつはオマルっ子だと暴露することもせず、それどころが彼はよく僕にカンニングをさせてくれました?。気のせいだろうけど。僕はオマルとの生活も捨てたもんじゃないと思いました。それから、どれ程の時も流れないうちに二階は住居に戻りました。店をもう一軒開いたのです。僕のオマル生活も無事終了と相成ったわけです。残念ながら江花とは中学校が一緒になりませんでした。でも先日、おフクロが銭湯で偶然お母さんと会ったところによると、なんとまだ近くにいるそうです。いやあ、彼がこのホームページを見てくれたら面白いなぁ。

江花、有り難う。君のお陰で僕はオマル生活を乗り越えることが出来た。その事で僕は歪むこともなく、学校生活を楽しく謳歌することが出来ました・・。

あれから、東京の気候はすっかり変わってしまいました。環境だけではなく、何もかもが澱んでいるような気がします。あの頃はつくづく東京も田舎だったな、よかったな、と思います。老後は東京を離れて、のどかな処で過ごしたいと思います。でも一生此所から出れないような気もします。

あと20年もしたらまたオマルに座ってたりして、へへ・・。


さあて、いかがでしたか?。ちょっと強烈でしたか?。気分転換に窓を開けましょう。 実は最近、この江花氏と楽しく一緒に飲んでいます。いやー、驚きますね〜。歳は取っても同級生は同級生ですな。

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